ユッケへおくる言葉

ゆっちゅは自分のことを「ユッケ」というようになったので「ユッケ」と呼ぶことにしよう。

ユッケは四月から幼稚園に通っている。

幼稚園バスが大好きなユッケは運転手席の後ろの窓側の席が、初乗りでその席に座ることができたこともあって、大のお気に入りだ。

見送るママに別れを惜しむそぶりも見せず元気よくバスに乗り込む。

隣には、なにかとユッケに世話をやく同い年のヒナちゃんが座る。

ユッケは幼稚園に行って毎日のように泥んこ遊びをして、泥だらけの靴と服を持ちかえり、ママとパパを呆れさせている。

園庭にホースで水を撒いて遊ぶ年長の子にくっ付いて遊んでいるらしい。

以前からユッケは、雨でできた水溜りに、ときに優しく、ときに激しく自らの足を踏み入れて、水が飛び散るさまや奏でられる音に心が奪われていた。

近ごろでは水面に自分の顔を写して面白がったり、じーじにも楽しいからやってみろと言わんばかりに強要する。

そして、その後で必ず水溜りを踏み荒らして得意げな表情を見せる。

ユッケが通う幼稚園は昔から、それぞれの園児が好む遊びをするに任せてくれるところがある。

そこはこの園のいいところだ。じーじは気に入っている。

ジィのことを、ユッケは「じーじ」と呼ぶようになったから、「ジィ」改めて「じーじ」と自称することにする。

ユッケは、好奇心にあふれたキラキラした目をよく見せる、いかにも子どもらしい子どもに育っているのが、じーじは嬉しい。

ゆっちゅの魂

あと一月でゆっちゅは三歳になる。

ゆっちゅはジィジやバァバなど、じぶん以外の人と言葉を用いて遊ぶことができるようになってきた。

 

「あっちへ行くよ 座る」は、あっちへ行ってイスに座って、自分のそばに来ないでという意味なのだ。

「・・しない」という否定的表現と並行して、このような他者の行動を規制する言語表現が多用されるようになった。

 

最近ゆっちゅはジィが仰向けに寝たりうつ伏せになったうえに立ち上がってジャンプして飛び降りる遊びや、ジィに両手をつかんでもらってジィの大腿から腹胸へと足をかけ身体を一回転させる技を習得しようしている。

それをするためにジィを呼ぶ。

「ジィジこっちくるよ」「おねがいします」「ジィジここ」と言ってゆっちゅはじぶんの傍を手でたたく。

そこに立っていると「すわる すわる」とゆっちゅはいらだつ。

ジィが座ると、思惑とは違うと怒りだしシャツをひっぱって引き倒そうとする。

結局は寝転がってジャンプ台になって欲しかったようだ。

しかし、ジィの身体のうえに立つとゆらゆらと揺れて不安定になるのに、そこでバランスをとるのがどうも楽しいとみえる。

それは、近ごろ飛び跳ねたりジャンプしたりして空中で体をひねったり反転したりするのをおもしろがるようになってきたことと関連する運動神経の発達の兆候かもしれない。

しかしまた一方では、ゆっちゅは思いついたことを実行するために相手にしかるべき役割をしてもらうための指示のしかたに苦心もしている。

 

今ゆっちゅは身体の成長にともなってじぶんの身体を意識して操作する能力が高まってきており、身体を動かす喜びに内から突き動かされ活発に活動するようになってきている。

それにともなって経験の質も量も格段に高まってきているようだ。

そうした経験をかさねるにしたがい物事がいろいろとわかるようになって外界からの刺激も多様で複雑なものになり、ゆっちゅの脳ではそれにあわせて神経回路も急速に増えたり、組み換えが起こったりと、もちろん「シナプスの刈り込み」も盛んに行われ日々大きく変化しているのであろう。

そして、おもちゃなど物を相手にするのとは異なり、じぶんがしたいとおもうことをするためには、人を利用しなければならない場合があることもわかってきて、そのためには言葉で指示しなければならないことにも気づきはじめたようだ。

ゆっちゅはこれから長い時間をかけて試行錯誤をくりかえしながら経験を積み重ねて言葉を一つ一つ習得してゆくことになるのだ。

そんなゆっちゅをジィは応援したい。

 

「三つ子の魂百まで」と言い習わされた言葉の意味を自分なりに考えてみたいと思って、孫の成長をブログに書いてきたわけだが、もうそろそろ潮時のようだ。

これといって結論めいたものをつかみとったという確信はないが、この一年あまりのあいだにゆっちゅが全身全霊で獲得してきた言葉は本物だと感じている。

そしてその言葉を通して、ゆっちゅを人として一個の存在として感じられたことはジィにとっては大いなる収穫であった。

「後生恐るべし」という孔子の言葉もあるように、ゆめゆめ軽んぜぬようこれからも良き遊び相手としてゆっちゅと付き合ってゆこうと思う。

 

「ゆっちゅとジィ」のブログは、これをもって終了します。

ジィの拙い文章にお付き合いくださいました皆様、誠にありがとうございました。

 

我が道をゆく

散歩に行こうよと言うと、「さんぽ行かない」

お家に帰ろうと言うと、「おうちに帰らない」

お風呂に入ろうと言うと、「おふろ入らない」

と何か提案すると必ず拒否する最近のゆっちゅ。

 

自らの行為を否定的に表現しはじめたことで印象にのこっていることがいくつかある。

じぶんでおもちゃを投げてしまってから、「投げない」と言って泣き出しそうな顔をよくしていたことである。

好きなミニカーを投げてしまったときなどは、「投げない」「かわいそう」と言って泣き出しそうな顔をした。

投げられたものに、ママが痛かったよね、かわいそうだよねとよく言い言いしていたことから学んだようだ。

ゆっちゅはつかまり立ちする前から、川面に石を投げたり室内でボール投げをよくやっていた。

しかし、それらは石やボールを手渡してもらうからできることで、じぶんで歩いて欲しいものを手に取ることができるようになってからも、はじめのうちは教えられたように河原の水ぎわに行かなければ足は投げなかったし、ボール投げも形どおりの遊び方をしていた。

やがて石やボール以外のものも投げ始めるようになる。

とくに友だちとおもちゃの取り合いになって、「だめだよ」たしなめられるようになると、ゆっちゅはおこってじぶんが手にしている物を放り投げるようになった、そして泣いた。

 

じぶんから移動して物を投げることができるようになると、状況判断をまちがえるとたしなめられるので、石投げのように投げていいものといけないもの、川面に向かってなら投げていいが、ひとにたいしてはいけないことなどを区別する学習しなければならなくなる。

 

はじめのうちはたしなめられると、おとなしく言うことを聞いていたが、近ごろは大人の顔色をうかがうようになって言っても聞かなくなってきた。

そんなとき、よくゆっちゅは笑い顔をみせる。

それは一種の遊び感覚で反抗的行動をとっているふしがあり、ゆっちゅは注意を受けることを予測してしてじぶんのやっていることを理解しているように感じる。

遊びは学習であることを物語っている。

ところが、なぜ注意を受けるのかが理解できず混乱をきたすとゆっちゅの頭脳はカタストロフィーをおこして大泣きし暴れだす。

 

ミニカーでひとり遊びをするようになってからはゆっちゅは想像の世界に遊ぶことをおぼえはじめようだ。

しかもその世界は感情によって染めあげられている。

ミニカーは擬人化され人格をもっていてゆっちゅとの間には人間関係が成立している。

「カーズ」というアニメーションはゆっちゅに大きく影響しているようだ。

 

おトイレ訓練

ゆっちゅのオムツはずしの訓練がいよいよはじまった。

オシッコやウンチを意識し、それをトイレですませることを覚えることは、ゆっちゅの生涯にわたる自己の自然性との対話のはじまりとなる大切な学習である。

それは、ある意味では意識の王国の土台である自然との関わり合い方を学ぶ機会でもある。

オシッコやウンチは、大脳が作り上げた人間文化おいては表向きは否定し存在しないものとして意識によって抑圧管理されてゆく自然の象徴的なものと言えよう。

自らの動物としての自然性は、大脳新皮質が主導する社会では忌避され意識下に幽閉される。

偶然にも脳が肥大化するDNAにスイッチが入ってしまった人類は、意識をもち大脳新皮質の構造や機能に準拠することを合理的な根拠として、自らも含めた自然の分析とコントロールの術を文化として後世に遺すに至った。

自然の解明はまだとるに足りないものであろうが、現代社会を生きる我々はひとりの人間の頭脳からすれば膨大な知識と人工物にあふれた世界に身を投じられている自分を見いだす。

文化の全貌を俯瞰しえない頭脳は、どうかすると自らもその一員である人類の力を過大に評価し自らの因ってきたる自然をないがしろにかんがえてしまう。

科学が我々の身体を構成する細胞の全貌を解明するにはまだ多くの時間がかかることであろう。

我々はたったひとつの細胞から発生する、そして細胞だけが細胞を生むことができ、細胞は恒久的に生き続ける。

その細胞は自然がつくりだしたものであることを忘れてはならない。

自らの自然性を自覚するきっかけをあたえてくれる生理現象の学習の機会をどのように体験しそこで何を理解するかによっては、その子の人間形成に多大な影響を与えることになるとかんがえられる。

人間だって所詮は動物であり自然の産物にすぎないと言って開き直れるようになるには、然るべき学習を積みかさねて意識の王国の成文法ともいうべき文化の要諦を学んだ後でなければかなわない。

 

人間の自我形成期におけるオシッコとウンチの学習は、その人の自然との関わり方を百年にわたって方向づけると言ったら大げさに聞こえるかもしれない。

しかし、大脳新皮質の論理のみに基づいた文化的方面に過度に重きを置きすぎると、外なる自然のバランスを崩して環境汚染をひきおこすことにもなる。

急激な自然科学の発展により外なる自然に加えられた人為的抑圧、とりわけエネルギーを石油に極端に依存しヒト社会を一律に都市化しようとする傾向は自然との軋轢を生み、今日のさまざまな環境問題を招来した。

人類が英知を結集してきた文化が場合によっては人類の生存を脅かす誘因となるもの皮肉なものだが、その正体がはっきりしない自然を相手に、しかも外なる自然ばかりか自らも多くの謎をはらむ自然のうえに立脚して人類は文明を築いてきたことをよく認識するならば、個人が自己の自然性を性急に文化の枠にはめることには慎重であるべきである。

ひとが安定的でポジティブな意識の活動を行ってゆくうえで自身の自然との友好な関係は重要な意味をもつと思われる。

自然環境の良し悪しが人間の心理にあたえる影響はだれでも経験するところである。

 

ゆっちゅはようやく、オシッコやウンチが出てしまってからだが、おしえることができるようになった。

また、オシッコを催したときにトイレに行こうとするそぶりも見せる。

トイレに向かうゆっちゅの後からだれかがトレーニング・パンツから流れおちるオシッコをタオルをもって追いかけて拭きとるドタバタ騒ぎがつづいている。

しかし、だれも怒ってゆっちゅを問い詰めるようなことはしない。

自然から離脱し人間化することにおいては、失敗はつきもののようだ。

ひとは失敗から学んでゆくものだが、焦りから結果ばかり気にするような人間になってしまわないとも限らない。

 

 

「もう一回」

文化は言語と手を取りあって人間の意識を自然状態から遊離させてゆく。

 

意識は言語によって反復学習をくりかえす。

眠りから覚めたゆっちゅが言葉をしゃべりだすと、表情やしぐさに生気がみなぎり行動が快活になってゆくのが確認できる。

また、特定の言葉がそれに対応する行動をひき起こすのもよく目にする。

たとえば「エンジン スタート」と言って、高速で足踏みをしながら身体にひねりをくわえて右に左にと踏み出しては戻るという運動を繰りかえす遊びを近ごろ好んでやる。

この遊びにつながると思われる行動がある。

ひとつは後ろ向きで歩く行動である。

自動車のバックするのをマネしているようだ。

「ピッピッピッ」と大型車がバックするさいにだす発信音を口ずさみながらやる。

それと前後して「カニ走り」と言いながら身体を横向きにして脚を交差させて走ったり、蛇行して走ったりするようにもなった。

それらを複合的に組み合わせて前後左右に圧縮した、ちょうどサッカーの三浦知良選手がやっていた「カズダンス」のような足さばきをするのである。

「エンジンスタート」を合言葉にゆっちゅはクルマになりきるのだ。

 

言葉が習得されるには、同じことがらが繰り返されなければならない。

思い起こせば、ゆっちゅにとって走るという行為をさす言葉は「ヨーイドン」であった。

はじめは「いっしょに走ろう」というようなニュアンスでつかっていたものが、「じぶんが走るよ」というふうにつかうようになり、いつのまにかスローモーションで走るときに「スロー」という言葉もくわわり、やがて循環して走りまわる「エンジンジン」となり、右まわり左まわりが分かるようになると、いまではその場を動かず全方位的にステップを踏む「エンジンスタート」のダンスへと進化のプロセスをたどることができる。

こうしてみると、ゆっちゅの場合、言葉と意識は運動経験と密接に関係しているのがわかる。

運動神経の回線の複合が進み、身体も複雑な動きができるようになるにつれてゆっちゅの感受性は高まってゆくように見える。

トミカのミニカーが好きなゆっちゅは、散歩のときに目にするクルマのエンブレムに関心をもちはじめた。

また、ユーチューブから得る知識や説明する言葉をまたたく間に吸収しているようだ。

相手に行動をソフトに強要する「・・してごらん」という言葉をゆっちゅは「・・してごじゃん」と言って相手もつい笑いに誘いこまれてしまうのだが、相手が思う通りにやらないとゆっちゅはかんしゃくをおこす。

「・・してみよう」「・・行ってみよう」などという言葉も多用するようになった。

しかし、これらはジィやバァにじぶんの思うように動いて欲しいという意味でつかう。

身体的な距離感もゆっちゅの方から絡んでくるような間合いをとってくるようになってきた。

そしてこうした傾向は「カーズ」という2時間弱のアニメーションを集中して見るようになってから強まってきたようだ。

これは登場人物のすべてがクルマというクルマ社会の設定になっている物語である。

主人公は自己中心的で向こう見ずなレーシングカーでさまざまな経験を経て、友情や師への尊敬や周囲の人々への敬意の念にめざめて一人前になってゆく自己成長小説仕立てになっている。

主人公のライトニング・マックィーンの感情が高ぶったりいら立ったり恐れたり落ちこんだりするのに、見始めのころはそれに耐えられなかったのか、しばらくは見るのを忌避していた。ところが近ごろは買ってもらったキャラクターのミニカーをつかって物語を反すうしているのか、キャラクターに顔を近づけて「カーズ」の世界に入りこんでゆくようになった。

 

ゆっちゅは今でこそ「もう一回」となんども繰り返すことを求めることができるようになったが、言葉を習得する以前は同じ事象をしめす言葉をほとんど反応らしい反応をしないゆっちゅに向かってなんども話しかけたものであった。

しかし、やみくもに言葉を言ってもだめで、ゆっちゅが関心を示すものに言葉をあたえなければならないと気づいてからは、ゆっちゅの感嘆の声やゆび指し行為やものを見るときの目の輝きを手がかりにゆっちゅの興味をひくものの名をささやき続けた。

やがてその言葉を聞き分けるようになると、言葉を耳にしただけで、じぶんの見たいもの行きたいところを意識するようになっていった。

そして、関心を抱くと「もう一回 もう一回」と気がすむまで「もう一回」という言葉をつかうことを覚え、近ごろでは公園で遊んでいるときに「お家に帰らない」と「・・しない」という否定的な言葉でじぶんの意志の表示を明確にするようにもなってきた。

自己性の夜明け

神経細胞をかけめぐる信号はデジタル性でリズム的性質をもち、外界の昼夜の日リズムや寒暖などの年リズムをはじめとして、さまざまなリズムが共振する場面に触発されて意識と言語は手を携えて発生するとかんがえられる。

「三つ子の魂」に言語の形成が大きな役割をもつことは当然かんがえられるべきである。

外界からの刺激が諸感覚器官を通じて脳へと送られてくる信号、そして身体内部からの刺激が神経細胞を通して求心的に脳へと送られてくる信号と、反対に脳から運動神経を介して身体各所に遠心的に送られる信号が、相互に大脳皮質のなかで行き交いながら共鳴し共振しあって、ある種のリズム的な場面において、まずは音韻や韻律として音声言語が定着すると意識が生まれ、やがて手を携えて個々の特徴をもって自己性の回路をつくりあげてゆく。

自己性の回路は、一人ひとりが何をどのように意識し生涯にわたって個体として成長し完成するプロセスを起動する基本的なパターンのことである。

 

 

意識の王国

ヒトを細胞という視点からみると、ヒトは自然な存在である。

しかし、人の意識が形成されるやいなや人の自然状態からの離脱がはじまる。

 

オシッコやウンチは自然の摂理であり、おなかが空けば不機嫌になるし、眠くなったら意識は散漫になる。

細胞の活動は生理現象であり、そのすべては自然現象である。

そこに大人と幼児に区別はない。

違いがあるようにみえるのは、意識の介入の程度が異なり、時と場所と状況に応じた生活様式をとれるかどうかの違いにすぎない。

大人になればトイレで用を足せるし、腹が空けばコンビニへいってパンを買って食べることもできる、そして居眠りして仕事に支障をきたさないように規則正しい生活習慣をこころがけるようにもなる。

大人は自分の生理現象をうまく手なずけることができているからいちいち意識しないだけのことで、けっしてみずからの生命活動を自由自在にコントロールしているというわけではないのである。

 

なにはともあれ、意識の王国を形成することによって人は自然状態から遊離するのだが、その離脱の仕方は人それぞれで、そこでその人の生涯にわたる生き方のスタイルの元型が形づくられるとかんがえられる。

それが、いわゆる「三つ子の魂」である。

自然状態からの離脱の仕方が人の個性と関係するというなら、人間特有の巨大化した大脳皮質の機能である意識作用と言語の役割をみてゆくのが得策であろう。