「同じ」と「違う」

ゆっちゅが今、一生懸命使おうとしていることばは、ゆっちゅにとってもジィにとっても、「同じ」ものでなければなりません。

もちろん、ママやパパ、ばぁばや叔母ちゃんと「同じ」ものでもなければなりません。

やがては、日本語を使う人々と「同じ」ものになるように精度をあげていかなければなりません。

言葉が使えるようになるには、「同じ」ということが理解できなければなりません。

ゆっちゅが毎日見る桜の木は、春には花が咲いていました。

その木が今は葉が鬱蒼と茂っているうえに、夜間には街灯でかすかに見える程度です。

それでも「同じ」サクラでなければ、すなわち、ゆっちゅにとって「サクラ」と呼ばれる「同じもの」だということが了解できなければ、ゆっちゅは言葉を獲得することはできません。

逆から考えれば、自然界の出来事は時々刻々と移り変わって行くものですから、それを見、聞き、感じているゆっちゅは、決して「同じもの」を見、聞き、感じることはできないはずなのです。

周囲の人が話している言葉にしたって、ジィの音の高さとママとでは違います。ジィは低音でママはそれより高い音程で話します。

ゆっちゅの耳には違う音が聞こえているはずです。

ママが「ゆっちゅ」と呼んだときと、ジィが呼んだときでは、音が違うわけですから、同じものだとは感じてないはずです。

それが「同じ」自分を指しているなどとは思えるはずもありません。

最初は、ただ単に音のする方に耳を向けているにすぎないのです。

こう考えると、ゆっちゅは「同じ」と「違う」の狭間で必死になって戦っていると言えます。それを乗り越えなければ、言葉を身につけることはできないし、大人になるためにしなければならない学習ということです。

そう思うと、ジィはゆっちゅを激励し応援したくなります。