自我と意識と言葉
ゆっちゅを見ていると、意識が「同じ」という作用であることがよくわかる。
ゆっちゅは、何度も何度も同じことを繰り返す。
手で触ったものは、比較的記憶に残るようだ。舐めようとするものは、とくに関心が強いものだ。
時を変え場所を変えて、同じもの、似たものを見れば、ゆびを指し、言葉を発し、ゆっちゅ語を唱える。
日を跨いでも、同じ場所で同じものを見れば、同様に行動する。
音についても同様だ。
同じ音、似た音を聞き付けると、言葉で確認するか、ゆびを指すか、ゆっちゅ語をしゃべる。
言葉もまた、「同じ」という原則の上に成り立っているものだ。
ゆっちゅが使えるようになった「ェしゃ(電車)」や「かぁ(自動車)」や「わんわ(いぬ)」や「ちゃ(麦茶)」や「ゴ(いちご🍓)」などの言葉は、対象の「同じ」だというゆっちゅの認識の度合いはかなり強いと言える。
種類の違いや大きさの違いを越え、写真でも絵でも識別できるし、音声言語を聞いても何のことか理解しているだから、言葉を仲立ちにして、「同一性」が成立している。それは意味がわかっているということだろう。
それなら、自我はどこで形成されるかというと、当然、意識においてと考えてよい。寝ているとき、その人には自我がないからだ。
意識が「同じ」という作用であるなら、自我もまた、「同じ」という作用と言っていいだろう。
言葉を習得することで、意識は自我としての定着地点を得る大いなる手助けとなったはずである。
二歳頃に見られる、いわゆるイヤイヤ期は、不安定な自我を確固たるものにしようとする努力に他ならない。
ゆっちゅも、しだいに我を通そうとする傾向が強まってきている。