演劇的ゆっちゅ論

ジィは、大学時代に、ちょぴっと演劇をかじったことがある。つかこうへいの演劇が、流行していた頃である。『戦争で死ねなかったお父さんのために』『熱海殺人事件』『蒲田行進曲』などがある。

演劇は、役者の台詞と演技と、そして観客によって成立する、総合芸術である。

 

今ゆっちゅは懸命に、ことばを獲得しようとしている。

その言葉の習得には、行動と密接な関係を持つ。

耳から入ってきた言葉を、自らの口や喉をつかって再現しなければならない。やがては紙に書くなり、キーボードを叩くなりして、自分の身体を使わなければ、それこそ身につかない。そこで脳が重要な役割していることは言うまでもない。

ゆっちゅがハイハイをするようになったり、歩きはじめるようになるなど、大きく行動が変化するときは、とくに言葉を獲得する上で重要な影響を与えると考えてよいはずだ。

 

演劇においては、観客は役者の台詞を聴き、役者の身体表現を見て、役者が化身する人物の人となりや価値観を把握して、その人物が自らの生きる生活環境や社会状況をどう捉えているのかを想像する。

すなわち、言葉で表現されれば、意識しているものは分かるし、言葉にしないことで、より一層意識していることを伝えることもできる。

行動によっても同様に、登場人物の意識している事柄はもちろんのこと、意識してない欲望までも観客には伝わる。

それは観客が登場人物の置かれている状況が分かっているから、状況が物語ることができるのである。

要するに、人は言葉と行為を通して、自らの経験に照らし合わせて、他人が世の中とはこういうものだと考えている、その考えが理解できるのである。それをコミュニケーションというのであるが。

 

それに対して、ゆっちゅのことばの獲得は、ベクトルの向きが反対だ。

知らない世界に放り出されて、そこには何もかもすべてが存在している世界だが、言葉を獲得するには、改めて「そこに何があるのか」を自分自身で見いだし、試行錯誤を繰り返しながら、ことばにつなぎとめていかなければならない。

ゆっちゅの世界、それを以前、純粋な感覚世界と表現したが、目に映る光景は高感度カメラで撮った写真のように隅々まで鮮明に目に残り、絶対音感で聞く音はその音源までたどるように聞こえ、それらが全てが、時の流れにたゆとう世界。

その世界から、ゆっちゅは言葉というトンネルを通って、通念が支配する人間世界に来ようとしている。われわれと共に生きるために。