もの想い

一昨日は、パパのお仕事がお休みの日だったので、さんぽはパパと、午後にはママと三人でスイミング・スクールへ行った。

その日は一日、ゆっちゅに合わなかった。

スマホの「みてね」というアプリで写真や動画が見れられるサイトがあるので、それで、ゆっちゅのさんぽの様子を撮った写真を何枚か見た。

そのなかに、何か考えている風で大人びた感じの写真があった。

しゃがんで、両手にあごを載せ、そのひじを膝で支えて、視線を地面に落としている。

いつも見せる、何かを見たり感じたりしている時の様子とも異なり、また、なにがしかの行動をしている時の表情とも違う。

ただぼうっとして中空に視線が止まったままでいる様子は時折見せるが、そんな感じの写真だ。

般若心経にある、人間の意識の4つの様相をあらわす「受想行識」の「想」の状態ではないかと考えた。

外界の刺激を感受している、すなわち「受」の時は、キラキラと目を輝かせているし、体を動かしている、すなわち「行」の時は意識を集中しているか、喜んでいる様子が全身から伝わってくる。

「受」とも「行」とも異なる意識状態にある時に、ゆっちゅは何か物思いにふけっているような様子を見せるのではないかと、ジィは考えたのだ。それが、近頃増えてきたような気がする。

 

昨日ゆっちゅは、初めて手すりにつかまって階段を5段降りることができた。

今までは、原っぱでしていた、ひとりぐるぐる回りや後ろ向き歩行や手を持ってもらっての反り返りやジィの股くぐりなどを、その日は路上でやった。

また、河川敷の原っぱでいつものように遊んでいるときも、動きにのびやかさと自由度の高さを感じさせた。

ちゃめっ気のある笑いもよく見せるようになった。

遊んでいて、ジィに何かやって欲しかったようで、手を差し出して何かしようとしたが、ジィが期待に応えてくれないので、手を振り払って苛立ちを露わにした。結局何がしたかったのか、ジィには見当がつかなかった。

ゆっちゅは喜怒哀楽をはっきり出すやうになった。

そのあと、コンクリートを打った堤の上に規則的に並んでいる直径30cm、高さ20mほどの円柱形のコンクリートの突起のひとつに、跨いで座っては立ち退くという行為を繰り返しやっていたのも、はじめて見る光景だった。

さんぽの終わりに、田んぼでジィが手で掬った小さなオタマジャクシに触って、興奮していた。喜びの表情も豊かになってきた。

 

夕方のさんぽで、ゆっちゅは、普段行かない場所へと向かった。

ジィの家の近くの橋だ。

家のベランダから車が行き交うのが見え、さんぽのとき、その下を通ると、大きな橋桁をゆび指して「イシー」と言い、少し離れたところから、橋上を走る車をを見て、「カー」とことばを発するようになっていた。

橋も、「ァシー」から「ハシー」へと、ハ行の子音もはっきりと発音するようになってきた。

ゆっちゅは、橋を了解したものと思われる。

ゆっちゅが、その橋の上に出る階段を登ろうとしたのだ。30段はあろう。手助けはしたものの、上まで登った。

ゆっちゅの自発性と積極性を大いに感じた。