挑戦

昨日、ゆっちゅの挑戦がいきなり始まった。

手離しの階段下りだ。その階段は遊園地の横にあり、手すりの付いたもので、段差も奥行も普通のものである。

 

なんの前触れもなく、躊躇するそぶりもなく、それは始まった。

片足に完全に重心を乗せることができて初めて可能になる技だ。

ゆっちゅは満を持していたのだろう。

手離しの階段下りは二度試みられ、二度とも成功した。

三回目は、上りの段階でハイハイ上りに切り替わったところで、下るのは取りやめた。

ゆっちゅは自然の言うことを聞いたのであろう、利口だ。

神社の石段では、すでに上り下りできていたのだが、段差が小さく奥行も広いもので、手すりはなかった。それに比べこの階段は、ゆっちゅにはより難度の高いものである。

 

ゆっちゅはハイハイから、つかまり立ちし、そして歩くという水平移動をするようになり、今自分の足で階段の上り下りという垂直方向への移動もできるようになった。

自分の足も意識するようになり、自分以外の人の足も認識するようになったのも、階段の昇降運動をするのと相前後すると思う。

その一方で、橋桁、電柱、カーブ・ミラーや街灯の支柱、ガードレールの支柱、家の柱、机や椅子の足などを指して、「アシ」とジィが呼称すると、ゆっちゅは即座に反応するようになってきていた。

 

歩いて自分の足を動かす経験をするようになって、「高さ」の感覚を持ち、それが意識されるようになってようやく立体的な構造体の柱が認識できるのではないかと思う。

柱状の物体を触って確認する時、必ずいつも見上げて、上に乗っかっているものをその都度確認していることから、「高さ」の認識も生まれてきたのだろう。

この間の意識形成と、階段の昇降運動にはつながりがあると思われる。

「アシ」という言葉は、ゆっちゅにとって、上にある物を支えているものを指す言葉だと考えられる。


「アシ」が構造的概念を指す言葉であるのに対して、「シークルクル」は機能的概念ではないかと思われる。

 

「シークルクル」は、ゆっちゅにとって動くもの全般を指して使う言葉である。

風ぐるまから始まり、タイヤの回転運動、木の切り株の年輪、円の形をした模様など、ゆっちゅにとっての運動は、円運動が元にあるように思われる。

ゆっちゅが、その言葉を確信的に使ったのは、自分で独楽のようにくるくる回わる行為をするようになった時だったと思う。

目が回るのを面白がるように、「クルクル、クルクル」と唱えながら、立ってその場で体を回転させていた。

 

一昨日、ゆっちゅが「アシークルクル」と言っているのを耳にした。

自分が乗っていたベビーカーの車輪をゆび指して言ったように思う。

その時、ママが推していた自転車の車輪をゆび指しても、言ったように思える。

暗い夜道のことなのではっきりと言えないが、近ごろベビーカーの横に身を乗り出し下を覗き込んでいたのは気がついていたし、ママの自転車の車輪をゆび指し「シークルクル」と言うのも耳にしていた。

 

立って歩き始めたことで生まれた体感と、それに伴って見たり聞いたり触ったりする経験によって形成された脳の神経細胞の配線と連携するように、構造と機能を認識できる意識が生まれてきたように思われる。

 

ゆっちゅが自立するうえで欠かせないものが、言葉であろう。

その言葉を獲得して行くうえで、その出発点は経験である。自分自身の身体を通して学習して行くほかない。

「アシークルクル」はゆっちゅ自身が自らの経験をもとに作り出した、ゆっちゅの言葉ということができると思う。