「カエル」は「蛙」

脳のトリセツにおいて、一番の関心対象になるのが、意識を生み出した大脳新皮質である。

末梢感覚器から末梢神経を通じて脳に届いた刺激を最初に取りまとめるそれぞれの一次感覚中枢、そこから延びた神経細胞を通って電気信号が波状的に広がり、他の神経細胞へと信号が伝わり、二次中枢、三次中枢へと複雑に繋がり合ってさらにそれらが運動領野や前頭前野へと連関して行く中で、意識が発生してきたのだろう。

特に後頭葉の一次視覚中枢と、側頭葉の一次聴覚中枢の間に、ウェルニッケ聴覚性言語中枢とその上部に視覚言語が関わる中枢の角回がありる。

その両者からの神経線維は、前頭葉の運動領近くにある発語に関わるブローカ運動性言語中枢に入る。

しかも、それぞれの近傍にはミラー・ニューロンの存在が確認されている。これは言葉の成立を考える上で重要である。

要するに、全く異質と言っていい視覚的要素と聴覚的要素を統合して、ヒトは発語という運動を行い、字を書くという行為をしているということなのだ。

そして、ヒトの脳は、言葉を媒体として意識活動と言語活動を相互補完的に取り行ってきたに違いない。

結論的に言うと、感覚の受動的状態から行動の能動的状態への移行段階で、言葉が介入してきて、自我が発生し「想い」の湧出を伴いながら言葉は意識に着床して行くと言いたいのである。

 

意識には同じものを結びつけるという働きが特徴的だが、それには言葉の存在無くしては考えられない。

もともと言葉そのものが、視覚と聴覚という性質を異にする要素を一緒にして「同じ」ものとして成り立っているのだから。

耳で聞く「カエル」という音声と、目で見る「蛙」という文字が、「同じもの」を指すのである。

幼児はそれを理解しなければならないのである。せめて触らせるぐらいはさせて、苦労を減らしてやりたいと思うではないか。

 

《ゆっちゅ、昨日・今日》

お風呂でのゆびを数える学習から、抱っこされながら階段の一段一段を数えての上り下り、選挙ポスター掲示板の番号の読み上げ、そして、大好きな電信柱の「アシ」の数え上げへと、数の何たるかは、まだ分からないにしても、同質で個別になっているものに対応して「イチ・ニ・サン・シ、ゴ」まで、ゆび指し確認するようになった。

自力で階段の上り下りができたことが、大きな自信になっていることは間違いない。

もちろん「イチ・ニ・サン・シ、ゴ」とかけ声をかけながら、上り下りしていた。