「ゴミシュウシュウシャ」

ゆっちゅは、動くものが大好きだ。

自動車では、パトカーや救急車、消防車、郵便車、宅配車、路線バス、高速バスなどが区別できる。

ゆっちゅの言葉では、すべて「カー」で言い表されるが、絵合わせカードをやるのを見ると、識別しているのが分かる。

 

ゆっちゅが、ゴミ収集車に興味を持っているのは、大きな口でゴミをむしゃむしゃ食べるからだろうか。

ゴミ収集車のおもちゃの模型を使って、ゴミを集める様子を連続して撮影して作った動画があって、それをよく見る。

実物のゴミ収集車も、働く車を特集した子ども向けビデオで見ている。

その実写ビデオでは、ゴミを集める場面はない。車の形状が分かるだけである。

さんぽの途中、実際に町のごみ収集車に、作業員の手によって段ボールが投げ入れられ圧縮される様子を見ている。

自動車や飛行機、船などの乗り物の絵が幼児向けにマンガ風に描かれた、2枚1組の絵合わせのカードで、よく遊んでいる。

その中に、ゴミ収集車がある。

その他、はたらく車の写真集の本や絵本があるが、その中からゴミ収集車を見つけ出して、ゆび指して「これ、これ」と指し示す。

DVDを見ている最中に、ゴミ収集車が出てくると、本を引っ張り出してきて、ゴミ収集車が載っているページをめくって、ゴミ収集車をゆび指す。色や柄が異なっていても、一方は動いており、他方は静止しており、大きさが違っていても、ゴミ収集車が分かるのだ。

 

しかし、よくよく考えてみると、写真や絵、動画、ビデオと情報の媒体が異なり、被写体も全く同じようには見えないものを、ゆっちゅが「同じ」と判断していると言い切っていいものだろうか。

こう考えることはできないだろうか。

ゴミ収集車を、ビデオや写真や絵で毎日のように、ゆっちゅは見ている。

それを「ゴミシュウシュウシャ」と呼ぶことは、耳で聞いて知っている。

自分が見ているものは、それぞれ色も柄も大きさも動き方も違っているが、「ゴミシュウシュウシャ」と同じ名前で呼ばれるものであるということは分かったということではないだろうか。

同一性を担保するのは言葉だ、という考えである。

ゆっちゅが見たものは、個々に脳に記憶はされている、と考えていい。

 

《ゆっちゅ、昨日・今日》

嬉しくて、気分が上昇してくると、駆け寄ってきて懐に飛び込み、活きのいいエビのように背を反り返えらせたり、身をかがめたりする。受け止める方が誤ると、相当なダメージをうける。

昨日は、ママとジィが犠牲となった。

階段昇降運動やジャンピングの垂直方向の運動エネルギーが水平方向に展開された形である。最近始めた水泳の影響であろうか。

野球のバットの先端に当たってボールに強烈にスピンがかかって、地面に落ちたボールが激しく自転し、グラブに入っても回転が止まず跳ね回っていた昔のことを、ジィは思い出した。