シン・アシ

役者は、脚本家の言葉という「他者の言葉」を、自己流に理解し演技する。

 

ゆっちゅは、言葉を持たずに、この世にやってきた。

周囲の人が使っている言葉を真似て、同じように使おうと試みる。

しかし、それは結果的に自己流になる。

 

ゆっちゅが使用する頻度が高いのが「アシ」という言葉だが、獲得するきっかけになったのは橋脚と電柱であろう。

ジィの家の近くにある橋の下に、ゆっちゅが物心がつく前から毎日のように行っていたこともあって「はし」という言葉はかなり早くから、ゆっちゅの耳に入っていたはずだ。

電柱は、街灯やカーブミラーの支柱と同じ「仲間」のようなものとして、ゆっちゅは毎日のさんぽの中でとらえていたように思う。

そして、一人で歩けるようになって「手」に続いて、自分の「アシ」を認識するようになってから、橋脚や電柱を「アシ」と呼称するようになったように思う。

人類は、やはり二足歩行するようになって固有の進化を遂げるようになるというのが、ゆっちゅを見ていると納得できる。

ゆっちゅは、立ち上がったことによって、目線の高さを得、垂直方向に空間意識が広がりを持つに至ったに違いない。

「アシ」は、空間意識を獲得する中で理解した言葉ではないかと思われる。

大きな橋を下から見上げて、傍らの橋脚をゆび指して「アシ」と、ゆっちゅが口走ったのを今でも覚えている。

見た目は壁と変わらないのに、これが「脚」かと、不審に思ったのだ。

建物の壁も、ゆっちゅにとっては「アシ」の範疇だ。

抱っこしているジィの「胸」も「アシ」と呼ぶところをみると、「立っている」ものはすべからく、ゆっちゅにとっては「脚」ということになる。

 

ところが、サイクリングが始まったことで、ゆっちゅの「アシ」に関する学習は、新たな展開を見せるかも知れない。

自転車で、大きな橋を二つくぐり、中規模の橋を二つと大きな橋を渡り、都合五つの橋を見てまわる。

ゆっちゅの補助席がフロントにあるので、走行中にペダルを漕ぐジィの脚を叩いて「アシ」と、幾度となく確認している。

時折、自分の脚も叩いて「アシ」と言って、ジィの脚との同一化を確認して風でもある。

ジィの脚が自転車を動かしていることを理解しようとしているのであろうか。

自転車を動かしているのがジィの脚で、その自転車に自分が乗っていることを認識しているかどうかは分からない。

あるいは、直感的には分かっているかも知れない。

今後、ゆっちゅにとって「アシ」の意味に変化が起こるのかも知れない。

心なしか、サイクリング中にゆっちゅが橋に注意を向ける傾向が強まったような気がするし、しかも「ハシ」と呼称しようとしている節もある。

移動するという機能的な側面と、上にある物を支えるという構造的な側面との両面から、ゆっちゅの「アシ」という言葉は、今、多様な意味を持って使われているように思われる。

 

役者は、与えられた「言葉」を手がかりに、脚本家や監督の、いわば「他者の心」を手探りし、自己流に世界観を創出する。

 

観客もまた、役者の台詞と演技、すなわち言葉と行動を通して、彼が表現する世界を、自己流に理解する。

 

普通、一つ一つの言葉には、ただひとつの正当な意味があると、思いがちだが、実は二つの言葉を並べて見せられると、受け取る人はそれぞれが十人十色、千差万別な意味で受け止めることが分かる。

この柔軟性こそが、実は言葉が生きている証だと思う。