ツイタ
一週間のブランクは、瞬く間に埋められた。
ゆっちゅの体調不良も大ごとにならず、戻って二日目には、以前にも増してコミュニケーションを図ろうとするゆっちゅの意欲は高まりを見せた。
自分の要望を、ジィが理解できないと、一心同体であるべしとばかりに、頰に張り手が飛んできた。
朝のさんぽも、昼のプールも、夕方のサイクリングも再開された。
近頃、抱っこが多かったさんぽも、初心に帰ってひとりで歩くし、プールも待ちわびていたかのように、すぐに入ると泣きさわぐ始末。
サイクリングでは、理解できない新語が数多く連発された。
その中で、一語だけが聞き取れた。「ツイタ」である。
日が落ちて、薄暗くなり、橋の外灯や車のライトが灯り始め、行き交う自転車のライトもつき始めたころに、「ツイタ」「ツイタ」と盛んに口走っていたのに、それが外灯やライトの光りが灯ったことを意味していることに、ジィは初め気がつかなかった。
実はジィはその言葉をすでに何度も耳にしていた。
ゆっちゅは、ジィの家の二階にある電気スタンドのスイッチの操作ができるようになって、電気が入って明るくなったときに「ついた」と、ゆっちゅは言うようになっていた。
また、暗くなって、二階に上がるとき、ゆっちゅには手が届かない階段や、部屋の電灯のスイッチを入れるように、ジィに指示を出してもいた。
暗くなってきて、あちこちに電気の光りが点り始めたのを認めて「ついた」と言ったのだろう。
ゆっちゅの脳には、すでに数多くの言葉が内蔵されているに違いない。
そして改めて、言葉の習得には、習慣がものをいうことを思い知った次第である。
脳がデータを操るために必要な言葉が習得されるまでに重ねられる経験の量たるや、ゆっちゅの執拗な「遊び」にも、納得が行くというものだ。