叩く

近ごろ、ゆっちゅは、何かしようとして、ジィがそれを理解して自分の思うように動かないと、ジィに腹をたて、ジィの肩や胸、頭や頰を平手で叩き、叩いてしまってからかなしそうな目でじっとジィを見つめる。

そんな時、身体の部位の名称を教えることにしている。

ゆっちゅの「まゆげ」、ゆっちゅの「め」、ゆっちゅの「はな」、ゆっちゅの「みみ」、ゆっちゅの「ほっぺ」と、いちいち指で触って、言葉を言う。

次に、これはジィの「まゆげ」、これはジィの「め」…と、同じように指さして言葉を言ってゆく、最後にこれはジィの「ほっぺ」とやって、ゆっちゅのほっぺに押し当てて、「ぺったんこ」とか「ぎゅーっ」と言いながら、抱きしめる。

そのせいか、近ごろジィの顔をまじまじと見つめることが増えた。

時に、瞬きもせずジィの目をのぞき込むこともある。

また、膝と踵と肘の部位と名称も教えはじめた。

肩と尻も追加しようと思う。

ゆっちゅからすぐに反応が返ってくるのを見ると、今、自分の身体に関心を抱いているように思う。

 

ジィの家に入ってくるとき、「ジジ、ババ」

と叫ぶようになった。

ジィと乗る自転車を「ジージー」と、単独でジィを呼ぶ「ジージ」とは、区別してるやら、してないやら、微妙なニュアンスの違いがある。

ゆっちゅがジィの後追いをするようになってきたことと、ジィを「ジー、ジジ、ジージ」と呼ぶようになってきたことには、関連がありそうだ。

それと、ジィを叩くようになったこととも相前後する。

ママの調べによると、言葉がうまく使えるようになるまでに、よく現れるコミュニケーションの取り方らしい。

自分が期待したようにならなかったり、期待したことと違ったりすると泣き叫ぶことがよく見られるようもなった。

一緒にいるものと思っていたジィが、離れてどこかへいってしまうとか、ジィの側にいたいのに、自分が離されてしまうと分かった時とかにも泣き叫ぶ。

単純にジィが、いる、いない、ということだけのことではなく、ゆっちゅの思惑が絡んでいる感じがする。

それは、ゆっちゅの心が進化しているにちがいない。

自分の思惑と「違う」「そうじゃない」といった、打ち消したり、否定する形で自分の「想い」を表現する、それが「いやいや期」の特徴なのだろう。

しかし、ゆっちゅは切り替えが早い、数秒後には機嫌が直っていることが多い。

新たな状況を示す感覚情報を察知すると、そちらに好奇心が向かう。

 

車や自転車、ヨット、飛行機、電車、船などの、二枚合わせて遊ぶカードが、気に入っていてよく遊んでいるのだが、お気に入りのカードの片割れを見つけた時、「あったァ」と言ってそれを差し出す。

自分が探していたものを見つけたという意味で「あった」という言葉をつかっているようだ。

ミニカーで遊んでいて、突然、本を取りに行って同じ種類の車が載っているページを開いて、「あったァ」。

同じミニカーで、大きさもデザインも異なる同種の車の共通性にも、床に敷いてあるマットに簡素にデザインされた車との類似性にも理解を示すということは、「あったァ」は〈同じものを見つけた〉〈同じがわかった〉と言っていると言っていい。

 

あるとない、いるといないを巡って、三つ子の魂は、成長し出している。