3語文
水曜日に、ゆっちゅはパパとママと三人で赤い特急電車の先頭車両のパノラマ席に座った。
食い入るように電線や電柱、線路など眼前に押し寄せてくる景物を見ていたそうだ。
次の日、その話を聞いてジィは「きのう赤い電車に乗ったんだって、たのしかったか」とベビーカーに乗ったゆっちゅに話しかけた。
それに応えるように、ゆっちゅが「アカイ デンシャ ノッタ」と言った。
これは、最初のゆっちゅの3語文だ。
話題は変わるが、近頃のゆっちゅには、意思の強さが目立って感じられるようになった。
ジィの反応を待ち受けるとき、ジィの目を見るゆっちゅの目に眼力が宿ることが度々ある。
期待通りにジィが行動しないと、ゆっちゅの目は険しくなり、怒り出す、泣きわめく、ジィの頰を叩くなどの反応を見せる。
また、時には、誘惑するような、媚びるような目で微笑みかけてくることもある。
まるで「ジィ、ボクの期待するように行動してね」と忖度を求めるように。
でも、ゆっちゅの要求とジィの行動が合致した時に見せる、会心の笑みは、芳醇な香りをかもす古酒のように心を酔わせる。
それは、ジィにとってはかけがえのない生命の泉だ。
言葉に頼ることができないコミュニケーションは単純だが、相手の要求を見極めることが容易ではない。
ゆっちゅの身に自分を置いて、人工的な思惑は括弧に入れて、虚心に相手の想いを感じ取らなければならない。
それに対して、言葉を使ってコミュニケーションができるようになると、言葉によって想いや要求にバイアスがかかり偏向が生じてくる。
以前は、赤い電車が近づいてきたのを見て喜んでいたものが、言葉を習得したことによって、「赤い電車」という言葉が耳に入ったり、思い浮かんだりすると、見たいと思ったり、見に行きたいと考えたりするようになる。
大げさな言い方をすれば、言葉が欲求を作り出すことになる。
言葉を使えば、意味のやりとりによってコミュニケーションは容易になる反面、意味よって形づくられる虚構性が、相手の要求や想いを了解するうえで障害となってくる。
本人が真に自分の要求なのか、想っていることなのか、はっきりしないものを、周囲の者がどうやって判断したらよいのか。
しかも、言葉を鵜呑みにしないで。
しかし今は、ゆっちゅの見せる純粋な感動が反映している表情を心ゆくまで味わっておこう。