自主性の芽

最近のさんぽで発見したことが、二つある。

一つは、行き先を言葉で伝えると、自分で歩かず抱っこしてくる。

もちろん、さんぽコースは、ここのところ固定しているので、次に行く所をゆっちゅが予想しているということも考えられないわけではない。

しかし、予想するためには、言葉がわからなくてはならない。

言葉によってイメージは喚起されると考えるのが妥当であろう。

経験は、言葉のまわりに像として凝結して行くと思われるからだ。

したがって、ゆっちゅは言葉が理解できる範囲で、次にすることを想定し行動しているのではないかと考えられる。

 

もう一つは、自主性である。

昨日、いつもの遊園地で、前日に続いてゆっちゅがすべり台のスロープの下を入ろうとした。一昨日は、帽子の庇にさえぎられてすべり台のスロープの底に頭をぶつけた、そして失敗したことに腹を立てて泣いた。

それを思い出して、「頭、ぶつけないように注意しろよ」とジィが注意すると、ゆっちゅは泣き出して、入るのをやめた。

ゆっちゅは、すべり台の下に入ってはダメだと受け取ったようだ。

日頃、ゆっちゅは自分から何かをしようとして、注意されても笑いを返してくるだけで、そのまま実行することもあるし、やってはいけないと知りながら強行することもある。

自分で出来る、あるいはしてもよいと思っていることは行動に移していると思われる。

しかし、そのときは、何か新しい試みようとしたのかもしれない。

そして、一昨日はその試みが失敗したのかも知れない。

ゆっちゅがとてもナーバスになっているように感じた。

人は自主性を発揮しようとする時、神経が高ぶりデリケートになり、傷つきやすくなるものだ。

 

習慣は人を強くするが、新規開拓を試みるとき人は傷つきやすい。