わがままを言う

わがままをいうことが、自分との関係で物事を知ろうとしていることであると考えるなら、イヤイヤ期の子どもは、まさしく自我形成の途上にあると言えよう。

外界からの感覚情報に対して行動を取ろうとしたり、自らが無意識におこす運動によって送られてくる運動–感覚神経系の情報を処理したりして、神経細胞のネットワークが脳内に張りめぐらされてゆく過程で、「同じだとする」意識のはたらきが、自分自身もいつも変わらない「同じ自分」とする意識を脳内に育ててゆくように思われる。

ジィが階段を上り下りするときに唱える「イチ ニ サン シ ゴ」も、カレンダーにある「12345」も、クルマのナンバープレートの「12345」も、自分が「アシ」や「木」をゆび指して言う「イチ ニ サン シ ゴ 」と同じものとして意識することに、ゆっちゅは一生懸命だ。

電車は電車であり、カーはカーである。青い電車があり、赤い電車もあるが、電車は電車である。黄色いクルマも、赤いクルマも同じ「カー」である。色も形も違う、一台一台がそれぞれ別個の存在だが、それらに共通するものが見て取れたときに「でんしゃ」とか「カー」という言葉が使えるようになる。

その意味では、言葉は「同じもの」を担保していると言っていい。

わがままというのは、同じようにならない、あるいは同じではないことへの苛立ちと言っていいのかも知れない。

さらに言うと、同じでないものを同じものにしてしまおうとする荒技を身につけるための苦行難行から解放されたがっている叫びのようにも聞こえる。

人間は、わがままを言いながら言葉を身につけてゆくものなのかも知れない。