身体知
学習は、行動することと切り離すことができないということが、ゆっちゅを見ているとよくわかる。
一緒に歩いていて、いつも驚かされるのが、障害物を回避するときの仕方である。
よそ見している歩いているゆっちゅが、そのまま進んで行くと、少し突き出したコンクリートの突起部分につまづいてしまいそうな場面や、路上の浮いている石を踏みつけて横転するのが確実に予想される歩幅と進路をたどっている場面によく遭遇する。
でも、ゆっちゅは足下を見ることもせず、よそを向いたままで、それらの障害物を難なくやり過ごして通り過ぎて行く。
数歩先にその障害物はすでに確認しており、それを回避して進むことは、とうの昔にインプット済みだと言わんばかりに、何の躊躇もなく歩みを進め、突起物や石のすぐ横に足を置いて、ジィの心配をよそに、サッサと先へ行ってしまうことが度々ある。
歩き始めた頃の、以前のゆっちゅだったらジィの予想はだいたい的中していたものだ。
しかし今では、心配して注意を促そうと声をかけることが、返ってゆっちゅの予定された行動を妨害してしまい、障害物につまづかせてしまうことになることもあって、ハラハラしながら黙って見ていることが多い。
動物的な勘とでも言ったらいいのだろうか、外から客観的に見て判断しているジィの情報処理とは異なった知に基づいて、ゆっちゅは行動していると思われる。
その知は、ゆっちゅが歩くという行為をするときに開かれてくる自然環境とのコミュニケーションみたいなものと言ったらいいのだろう。
ゆっちゅが、数を数えたり、文字を読んだりするのも、行動を起こすことによって、さまざまに様相を変えてくる外界との関係のなかで習得してくるものなのだろう。