高みをめざす自我

心身のバランスが取れた人間像は、現代社会においては、一つの理想像であろう。

しかしながら、身体が自然の一部、いや自然そのものであることに気づいている人は意外と少ないように思う。

普通、意識している身体は、心の領域に属しており、身体全体から見ればごく一部である。

因みに「のど元過ぎれば、熱さを忘れる」という言葉もあるように、多くの人は、自分に内臓があることなど、日常生活においては、ほとんど意識しない。

意識されない身体部分は、取り敢えず自然の領域にあると考えるべきだろう。

それは人間の手に負えない自然の力同様に、意識の支配を受けることはないが、無意識ととらえ、自然に通ずる心の領域と考えもいい。

脳を含めた、われわれの身体を構成し生命活動を維持している細胞のひとつでさえ、近代科学の原子論的合理主義の分析に対しては、広大な宇宙のような広がりをもった未知の世界として現れ、生きた姿を見せてくれない点で自然と同様である。

 

近頃のゆっちゅは、山に入るのを好む。

山といっても、ジィが毎日走るみかん山の舗装された農道を行くのだが、高速道路の下に開けられた隧道をくぐり抜けた途端、一瞬にして山に抱かれる感に包まれる。

隧道を出ると、10mほどの高さに上がるために山の斜面を円形に削り取った沢沿いの道に、高みに生えた木に巻きついた蔓が、ゆっちゅの手が届くところまで垂れ下がっていた。

ゆっちゅは、それを手に取って神社で鈴を鳴らす時のように一生懸命振り回したら、青空に張り付いていた木の葉っぱが揺れた。

人は二足歩行するようになってからずっと高いところに登りたがる習性があるのか、ゆっちゅも高い方へと向かう。

見晴らしのいい高台まで上がると、10日ほど前に雪を頂いた山が目の前に現れた。

その山の頂上にぽっかり雲が乗っかっていた時に「白い帽子を被ったお山」と擬人化して表現してから、ゆっちゅはその山を認識するようになった。

近頃では、その山が見えた時に「白いお山が見えるね」と言うと、自分の被っているスパイダーマンの装飾が施された帽子を手に取って「あっかい ぼーし」と言って「相似性を確認」する。

しかし、その日は数日前に続けざまに降った大雨で、山から流されてきた枯葉や落ち葉が積もってできた小さな山を、いっしょに流れてきた小枝でひっくり返して嬉々として地面研究に勤しんでいた。

なかなか帰ろうとしないので、登ってくるときに道の傍にあった祠に誘ったら、素直に従った。

その祠は、高速道路の建設で遷宮した山の神を祀ったものだった。

その由来を彫った碑をジィが読んでいたら、傍らでゆっちゅが「ま 」とか「す 」とか「し」と、ひらがなを拾い読みし始めた。

ジィは帰りがけにその祠に、ゆっちゅの庇護をお願いした。