遊びは「否定」の学習

在るものを、無いものとするには、否定することができなければならない。

自分の周りがすべて在るものばかりだったら、「否定」は、どこからやってくるというのだろうか。

勿論、脳からだ。

言葉を持たない動物も幼児も、ある行為を拒否する行為はできても、否定することはできない。

幼児にとっても、動物にとっても、周りはすべて在るものばかりだ。

幼児も動物も、何かをすることはできても、何かをしないでじっとしているということができない。

動物は、相手に攻撃するつもりがないことを分かってもらうために、相手に噛みついて途中で止めるという行為を繰り返し行うという。

そうすることで、自分が噛むのは、本当に噛もうとしているのではないことを伝えるらしい。

噛む、噛むことを中断することを繰り返す遊びによって、噛む意思がないことをコミュニケーションするらしい。

 

われわれは、遊びだと言うとき、それは真実ではないということを含意している。

それでは、真実とはどういうことかと言えば、常識的に嘘ではなくて事実であるものを言う。

相手の噛むという行動が、遊びかどうかを判断するには、相手の行為が意味するものとは別のところにある相手の意図「本当は攻撃する意思はない」という相手の意図を、読み取ることができなければならない。

そのためには、遊びの内容とは直接のつながらないところにある「想い」を理解し合うには、コミュニケーションのレベルを一段上がらなければならない。

すなわち、遊びの直接的な内容を「否定」するのでなければならない。

だが、存在に感覚が張り付いてしまっている状態では「否定」が入り込む余地はない。

ところが、遊びによって「否定」を学ぶことができるのである。

 

人間の場合は、動物ほど自立するまでの期間が短くないためもあってか、言葉を習得することを通して、「否定する」ことができるようになるように思われる。

言葉は自然のものではなく、人間の約束の上に成り立っている。

言葉を習得するということは、言葉は何かを指し示すものであり、言葉が表示しているものそれ自体ではないということを知ることである。

「山」という言葉は「やま」と書いても「ヤマ」と書いても「やま」と読んでも「サン」と読むでもいいことを知り、やがて「mountain」と書いても「マウンテン」と読んでもよいことも知ることだろう。

そして、それらの言葉は、すべてあるひとつのものを指していることを知る時がきて、しかもすべての山という山を指すことはできても、たったひとつだけの山を指すことはできないことを理解したとき、言葉は約束の上に成り立っていることを知る。

 

ゆっちゅは「ダメ」という言葉が大嫌いだ。

拒否されていると思うらしく、言われると一瞬悲しい表情を見せてから、癇癪を起こす。

「ダメ」という言葉は、今、ゆっちゅの前では禁句なのだ。

ゆっちゅは、まだ「否定」ということを知らないように思われる。

「否定」を知るには、言葉の習得が欠かせないからだ。

ゆっちゅの言葉の使用頻度は、日に日に高まっている。

目覚めているときは、常にしゃべっているといってもいいくらいだ。

言葉によっては、教えるとすぐにオウム返しに言うことができる。

先日、よその子がタダをこねて泣いているところに通りかかったとき、突然「イヤイヤ期だ」とママが言うと、即座に反応して、ゆっちゅは「イヤイヤ キ」と二、三度繰り返し言った。

ゆっちゅは、イヤイヤ期が何を指すか分かっている風だった。

ひらがなや数字を読み取るようになってから、ゆっちゅは、言葉を言うことによって、感覚で捉えたものを、対象世界全体の「地」から、特定の対象、すなわち「図」として分節すること覚えたように思われる。

鉄橋が大好きなゆっちゅは、家に居ても、さんぽをしていても、急に思いついたように「テッキョ イコォ」と言い出す、そんな時「ダメ」などと言うものなら、ひと騒ぎ起こる。

「後で行こう」も同じ結果を招く、そんなときは、身近にある具体的に在るもので意識をそちらに向けることで、ゆっちゅの癇癪を回避することができる。

「テッキョ」という言葉で、ゆっちゅの脳内に喚起されるイメージよりも、現実的に感覚に訴えてくるものの方が勝っているのが、現時点でのゆっちゅにおける言葉の力と言っていいように思う。

 

子どもが遊びに夢中になるのは、自分が作りあける世界で、自分が主人公となり、自分で好きなように物語を展開することができるからである。

そのためには、現実からある程度の距離をとって、任意に言葉を選び取り、その言葉から湧き上がってくるイメージと戯れることができる自由を得なければならない。

遊びの楽しさは、自由の享受にある。

感覚に縛られない、現実に拘束されないためには、絶え間ない現象の流れから身を引き剝がす必要があり「否定」することでそれが可能となる。

「否定」こそが、遊びの成立する条件と言えよう。

 

ゆっちゅは、まだ一人遊びができない。

遊びの学習中なのだ。