「道具的報酬」の学習コンテクスト〜足

足は、ゆっちゅが手に次いで関心を持った身体部位だ。

足の意識を持ち始めると間もなく、ゆっちゅは電柱やカーブミラーの支柱、橋脚、門柱、家の柱を見ると「アシ」と盛んに呼称するようになった。

ゆっちゅの言う「アシ」は、いずれも上に何らかの物あって、それを下で支える構造を持っている。

電柱は電線と、支柱と鏡、橋脚は橋梁と、そして家の柱は、壁と天井と床と結びついて隧道の構造へと発展し「中と外」を意識するに至った。

ジィの胸が最初は「アシ」と見なされていたのが、次第に膝、肘、肩、のど、首、眉毛、鼻、耳、顎、頭、頭髪へと分節され、名称が確認されていった。

ゆっちゅを乗せてサイクリングをするようになってしばらくしてからのこと、前部座席に座ったゆっちゅが、ペダルを漕ぐジィの腿や膝をつかもうとしたり、押さえ込もとしたりするようになった。

そして、しきりに「アシ  アシ」と叫んで嬉しそうに騒ぐようになった。

それに加えて、近頃、ランニングパンツとランニングシャツで走るジィの勇姿?に遭遇して感化されたわけでもなかろうが、走るのが、今ゆっちゅのブームになっている。

ゆっちゅの走る様子をスローで撮影したものを本人に見せたところ、つかさずスローモーションをまねて走って見せたのには、驚かされた。

ゆっちゅの身体能力は、日々発展していることを思い知った次第だ。

昨日、みかん狩りに行った際、よほど開放的な気分になったのか、ゆっちゅは山の斜面のみかん畠に寝転がって、全身藁まみれになりながら、青空を仰いだり、ごろごろ転げ回って遊んでいた。

そして、用意ドンと掛け声をあげて、一人で自然石の階段を駆け上がる姿には、男の子らしいたくましさを見た。

 

足は、最も身近な移動の手段である。

そぞろ歩きというのもあるが、それにしても漠然とではあれ、行き先が設定されなければならない。

足を使うということは、目的をもつことと相補的である。

歩き始めのゆっちゅは、大人の真似をして足の運びに意識を集中していたが、ひとりで歩けるようになるに従い、意識は目的地へと向かって行く。

うっかり転ぼうものなら、泣いて暴れる。

抱っこされていても、自分が行きたい方へ向かわないと、ジィの顔を叩いて、恨めしそうに睨む。

だから、自分が望むように、自分の足で目的地に到達したときは、満面の笑みを見せる。

自主的に行動するとき、その時その場で、ゆっちゅなりにコンテクストを読んでいると思われる。

ゆっちゅにとっては、当に今ここで、そうする絶好のチャンスが訪れたに違いない。

しかし、往々にして、ゆっちゅの思惑と大人の思惑とは食い違う。

ゆっちゅは、子どもの常として、大人のコンテクストを学習し、TPOを習得して行かなければならない。

だがまだゆっちゅは、夢とも現実ともつかない、太古から続く、いわば細胞の記憶のなかに意識は浸かったままにある。

そして、子どもが子供らしく遊べるのは、子どものうちだけなのだ。

しかも、子どもの遊びには夢のような大きな可能性が潜んでいる。

大人は、一日も早く子どもを大人にしようとするし、子どもも早く大人と同じようになりたいと頑張るが、急いで大人になろうとするのは考えものだ。

大人になるのには、大器晩成でいい。

中途半端に大人になると、つまらない人生を送ることになるし、ましてや、人に夢を与えられる人にはなれない。

常識に囚われた大人が考えもつかないことを実現できるファンタジスタは、夢や遊びに熟達したヒトでもあるのだ。

大人の世界には、悪夢だけを食べてくれる獏ばかりではなく、夢そのものを食べてしまう怪物いる。

常識という当世風の価値観や、自分は捨てた夢で、子どもの夢を縛って子どもを食い物にする人間がいるので、注意しなければならない。

自分の夢を守るには、コンテクストを読み、TPOをわきまえた行動をするばかりでなく、コンテクストを自由に横断する能力を磨かなければならない。