「道具的回避」の学習コンテクスト〜行動

言葉は、人間にとって最も基本的な道具である。

言葉が分かるか否かは、人の行動に決定的な影響を及ぼす。

 

ゆっちゅはさんぽ中、交差点に差しかかると、立ち止まって車が来ないのを確認して「オッケー」と言ってから踏みだす。

また、道を歩いていて、車のエンジン音が聞こえると、道の端に寄って立ち止まる。

もちろんゆっちゅが歩けるようになってから、手とり足とり、言葉をまじえて教えたわけだが、ようやく「クルマ  来ないかな」と声をかけると、身を乗り出して左右の確認をするようになり「クルマ  来たよ」と言うと、立ち止まるようになった。

もし言葉が通じなければ、時には痛い思いをしながら、経験を通して学習しなければならないだろう。

反対に言葉がわかって痛い目に遭うこともなく、安全が確保されたとしても、危機回避を経験的に知ったわけではないので、理知的に理解しなければ、身を守る知識とはならない。

何はともあれ、現実が観念的な世界、すなわちゲームの世界と同じになってしまう傾向は、言葉というシンボリックな道具を使うことの宿命と言っていい。

唯脳論的に言えば「シンボルはもともと外界に指示対象を持たない脳内活動を外部に表出するもの」つまり脳内活動を示すためのものであるということになる。

しかも、ほとんどの人間活動はシンボル活動で、シンボル体系、すなわちゲームにおけるルールのようなものを含んで成り立っていると言える。

言葉をはじめとして、人間の行うシンボル活動は、約束ごと、つまりルールに則って成り立つのである。

ルールというものは「しなければならないこと」と「してはならないこと」が明記される。

「してもしなくてもいいこと」といった曖昧な事柄や自由にかかわる内容は、言外に追いやられる。

 

したがって、ゆっちゅが言葉という道具を使う上で、大事になるのが、先ず「してはならない」という禁止を理解することである。

ゆっちゅは、自分がしたことや、しようとしたことを否定される「ダメ」という言葉に腹を立て暴れるのは、禁止されることを学習したからで、自分が手にしたもの、おもちゃなどの道具類を取り上げられたり、身体を取り押さえられて、行動を封じられるという実力行使を受けたりして「ダメ」という言葉の意味を理解したに違いない。

大人のただならぬ声の響きをともなった「ダメ」という言葉といっしょに、行動の束縛を体験してゆっちゅは、回避しなければならない状況のコンテクストを認知して行くと考えられる。

しかしそれも、経験に裏打ちされているうちはいいが、言葉が自律してゆっちゅの行動を支配するようになると問題である。

現実と観念的世界の分別が曖昧になって、フロイトのいう現実原則、つまり動物本来の衝動の解放を、外界の現実に応じて、一時的に延期したり、断念したりする自我の働きが、うまく機能しなくなるからだ。

かと言って、言葉が駄目なら、身体で覚えさせるというのも、如何なものであろう。

やはり、自我の確立に言葉は欠かせないものである。

しかし、言葉を獲得してから後に、自我が構築されるわけではないことは、よく考えれば誰でも分かることなのに、大人は往々にして、言葉もわからない幼児に自我などないと思っている。

だが本当のところは、言葉を一つ一つ覚えながら、子どもは大人の行為を手本にしながら、外界との関係の持ち方を学んで、自分なりの世界観を築いていっているのである。