第二次的学習

ゲームとは、勝負、または勝敗を決めることをいうが、そこには守るべきルールがある。

サッカーにおいては、手を使ってはいけないことのルールがあるし、バスケットボールでは、ボールを持って移動してよい歩数が定められている。

勝敗を競い合うスポーツは、それぞれのスポーツが成立するために守らなければならないルールが設けられている。

ルールに違反すれば、程度に応じてペナルティーが与えられる。

そうしたルールを知ることで、自分がゲームに参加すれば、その中で自分が果たさなければならない役割がわかってくるし、観戦していて、個々の選手が何をしなければならないかがわかり、ゲームを楽しむことができる。

ルールに基づいてゲームを行うとき「しなければならないこと」として現れてくるもの、いわゆる「当為」と呼ばれるものを、一般にわれわれは「意味」と考えている。

この「意味」を成り立たせるものがコンテクストなのである。

学校に入れば、自ずと「しなければならないこと」があり、それをすることによって「意味」が生じる。

会社に入社すれば、その会社で自分が「しなければならないこと」が出てくる。

われわれの世界は「しなければならないこと」「するべきこと」すなわち意味で満ち溢れている。

 

これまでに、グレゴリー・ベイトソンの学習理論に基づいて「パブロフ的」「道具的報酬」「道具的回避」「反復学習」の四つのコンテクストにおける、ゆっちゅの原=学習の様子を見てきたが、いよいよ自我形成期に入ったゆっちゅの第二段階の学習について見て行くことにする。

 

ゆっちゅの次の段階は、自分の置かれたコンテクストを推測しそれに合わせて動くことになる第二次的な学習である。

この段階において、自我が形成されて行くと言われる。

イヤイヤ期は、自我の発生時に現れる一般的な傾向と思われる。

ゆっちゅのケースで言えば、さんぽのコースを変える際に、自分の気に沿わない道に入ったときや、ジィが自分の思う通りに動いてくれないときに、突然そっくり返って大暴れをする。

近頃その傾向が次第に強くなってきているが、それと並行して、表情に現れる感情、特に喜んでいる時の顔の表情や仕草は、豊かで鮮やかに表出されるようになった。

さて、さんぽの話に戻すと、意に沿わない道に入ると怒るということは、自分でしようとしていたことがあると考えられる。

また、一緒に遊ぶ場合と一人で遊ぶ場合とでは、あきらかにジィの役割があるわけで、それをゆっちゅははっきりと意識しているということである。

このようなゆっちゅの思惑は、ゆっちゅは自分が置かれているコンテクストを知っていて、自分がやろうとしていることを意識していることの表れである。

ほぼ毎日、決まった時間に、一定のコースを歩いているから「おさんぽにいこう」と誘えば、どこに行ったら何をするかは、ある程度想像することができるはずだ。

ジィを連れて二階の部屋に行くのは、ゆっちゅがしようとしていることを実現するためには自分一人ではできないことを知っていて、ジィが果たすべき役割をゆっちゅは承知の上で誘っているのである。

あるコンテクストにおいて、そこでの自分のやるべきことがわかっている、そんな段階に今ゆっちゅはいる。

イヤイヤ期は、そんな段階にあって、自分の思惑通りに行かないときに起こる、コミュニケーションの断裂症状なのであろう。