コンテクスト横断能力

ゆっちゅにとって、コンテクストは一定ではない。

水泳教室のときは、そこでやるべきことがあり、英語で遊ぼう教室のときは、そこでまたやるべきことがある。

ジィとのさんぽのときは、そのときでまたやることがある。

「やるべきこと」と言っても、まだ幼いゆっちゅには、それほどの強制力が働くことはない。

それでも、それぞれの場面で、大人たちが望むものに応えようと、ゆっちゅなりにがんばっている。

 

近頃、子育て支援センターに行くと、ゆっちゅは午後3時半の閉館時間が来て連れ帰ろうとすると「やあだ やあだ」と大暴れする。

行き始めた1年前とは大違いだ。

年長の男の子がいると、自分が遊びたいおもちゃで遊ぶのも一苦労だ。

何であれ、マネをするのが遊びの基本だから、衝突は避けられない。

突き飛ばされて泣かされても、しばらく経つとまた近づいて行く。

そのうち、学習して、その子には近づかなくなる。

別な日に行くと、その男の子がいない。

おもちゃは自由になったが、遊び方がわからないから、すぐに飽きてしまう。

さらに別な日に、その男の子が遊んでいるのをじっと見ていて、自分もやりたくなってつい手を出す、そしてまた突き飛ばされる。

その結果、もう二度と近づかないか、あるいは果敢におもちゃを取りに、またしても挑みかかるか、そこに性格が形成されて行く素地がある。

そのとき、実はコンテクストに応じて行動を選んでいるのである。

その男の子がいるということをどう捉えるかによって、コンテクストは変わる。

代替のおもちゃを探しに行くのも、奪還に挑むのも、新たなコンテクストへと横断的な行動をすることにおいて変わりはない。

肝心なことは、コンテクストを横断する能力によって豊かな人生を切り開いて行く人もあれば、それによって生きる活力を失ってしまう人もいるということだ。

コンテクスト横断能力を持ちはじめた子どもにとって、事物は決して単なるありのままの事物ではない。

ものは二重の意味を持っていると考えられる。

彼らにとって、ものはつねに象徴的なレベルでも存在するのである。

そういう世界では、言葉の象徴性が重要な役割を担っている。

 

ゆっちゅが気分転換が早いのは、おしゃべりなこと関係があるように思われる。

ゆっちゅは寝覚めがいいと、起きてすぐにおしゃべりが始まるが、寝覚めが悪いと、ぐずってなかなかおしゃべりをしない。

おしゃべりをしているときは、概ね機嫌が良く、感情が高揚している。

つまり言語活動と陽性的な感情が、ゆっちゅにおいては、今のところ連鎖している様子が見られる。

ゆっちゅは、おしゃべりしながらいつも、コンテクストの確認をしているようだ。

 

昨日の支援センターでの出来事のママの報告である。

あると思った椅子に腰を掛けようとしてひっくり返って後頭部を打って大泣きしているゆっちゅに、おもちゃの救急車を持って「救急車が来たから大丈夫だよ」と駆けよってきた、1年年長の男の子がいて、その男の子に、ゆっちゅが「いっしょに遊ぼう」と誘いの言葉をかけたと言う。

その男の子は、以前におもちゃの取り合いで取っ組みあって、ゆっちゅが一方的に叩いて、泣かせたことがあった相手だったらしい。