コミュニケーションとダブルバインド

コミュニケーションは、コンテクスト(文脈)を前提として成立する。

単に言葉を話すというのでは、通り一遍の言葉の往来があるだけで、「意味」のある会話にはならない。

今自分がどのような状況に置かれていて、どのような行動を求められているかがわかること、それがつまり、コンテクスト(文脈)である。

コミュニケーションは、コンテクスト(文脈)のすり合わせと言ってもいい。

大人の普通の会話においても、お互いに誤解しながら話をすることはよくある。

何気ない日常的な、どうでもいいような話なら、誤解していてもどうと言うことはない。

しかし、先生や上司の話となるとそうはいかない。

何が言いたいのか、正確に理解する必要が生じてくる。

何故かと言えば、行動を求められているからである。

間違ったことをしたり失敗をすれば、責任を追及されることにつながるからだ。

こうした場合のメッセージのやり取りにおいては、言葉に現れない、あるいは言葉の裏にある感情といったメタメッセージが伴うことがままある。

そのような場合に、暗黙の了解とか、阿吽の呼吸とか、最近流行の忖度などが働くことになる。

しかし、メッセージとメタメッセージが相矛盾したりすると、コンテクストは柔軟性を失い、いわゆるベイトソンのいう「ダブルバインド」状態となり、コミュニケーションは機能しなくなる。

親に「好きにしなさい」と言われても、好きにしたら叱られることがわかる子どもは、判断が停止し身体が硬直してしまい、意識と行動の連繋が上手く取れなくなる。

 

ゆっちゅは、今自分が置かれている状況において、何をするかという、いわばコンテクスト横断の準備段階にあると思われる。

自我形成の途上にあるゆっちゅは、まだ自分を客観的に見ることができず、そのほとんどは自然と直結する本能的な知能と、人生経験のわずかな期間の「日々の行動の蓄積で体得された暗黙のルール」(小熊英二の言う「エートス」)、いわば生活習慣と言っていいようなものに則って、自分の置かれている状況のコンテクスト(文脈)を理解しようと努めているところだろう。

 

状況という言葉で意味するところは、人間には現実的で否定しようのない事実性として立ち現れる無常なる自然の諸条件と、堅固な社会システムを維持することを可能にする、人間活動を規制する「日々の行動の蓄積で体得される暗黙のルール」のうえに築かれた文化との複合体を指す。

それに対してコンテクスト(文脈)は、人それぞれが経験や学習によって身につけた知識や感受性によって、そのような状況を慣習的かつ個別的に固定化して受け止める、その受け止め方を指す。

ゆえに、状況をどのようなコンテクスト(文脈)で見て取るかは、個々に千差万別である。