知る
生をうけてゆっちゅが最初に感じたものは母の胎内で奏でられていたリズムであろう。
地球が自転し、昼と夜が交替する明暗のリズム、四季が織りなす色彩のリズム、自然界や人間生活の音など世界はリズムとしてひとつのものとして、ゆっちゅに語りかけてきたに違いない。
ゆっちゅも含めたひとつのものとして世界はつながっていた。
ゆっちゅは道を歩いていて、石や枯葉を見つけると気になって手にしないではいられないようだ。
石段や舗装道路で見つけて、それらを取ろうとするとき、必ずと言っていいほど親指と人差し指の二本のゆびでゆっくりと慎重につまみ取る。
米つぶほどのものならわかるが、直径2cmの石でも二本のゆびで、まるで豆腐のように形が崩れそうなものを扱うようにつまみあげて「いし」と言いながら微笑みかけてきて、ジィに手渡すこともあれば、しばらく手に持ったままでさんぽを続けることがある。
そして、持っていた石を落としてしまったときは、自分では拾わず、必ずジィに拾わせる。
枯葉は必ずと言っていいほどジィに渡す。
川原で石がたくさんあるところでは砂地で立ち止まって棒を探してそれで突っつくことに意識が集中し石には関心を示さない。
原っぱなどで石を見つけると二つぐらいはわしづかみし、投げる。
そういうときは、投げた石を自分で拾いに行くし、「ジィジもやって」と言ってジィにも投げるように求めてくる。
ジィが投げたのを拾いに行って、投げたりもする。
近ごろでは棒でも、石と同じような遊び方をするようになった。
でも土が露出しているところを見つけると、やはり気になるらしく棒状のものやスプーンのように掬える形状の木片を探しては、穴を開けたり土を掬って盛ったりして遊ぶ。
ゆっちゅはひとつひとつ物事を確かめながら分節の作業をおこなっている。
それを意識してやっているわけではあるまい。
この世に生をうけた者がする当然のことをしているだけなのだ。
それが「知る」という行為なのである。