情緒的人間
自然は日々変化しながらも一定の状態を保ち続ける最適化の原理にしたがっているのに対し、ヒトは大脳が巨大化したために、文化という自然とは異なる特有の環境をつくりはじめた。
そしてそこでは、いつしか最大化が支配原理となっていった。
近ごろゆっちゅはミニカーで遊んでいて、遊び方がうまく行かなかったり、大人がかけた言葉が気に入らなかったりすると、ミニカーを放り投げる。
そして投げたミニカーを見つめて「投げない」とか、「痛い」とか、「かわいそう」とか言う。
これらの言葉はママの教育的配慮のなかで使っているものである。
そんな言葉を口にしながら、ゆっちゅは自分の行為を反省している。
「前にも同じようなことをして、同じような気持ちになったことかあったぞ」というふうに。
そして、今にも泣き出すか、手当たり次第に他のミニカーも放り投げるかする直前の、湧き上がってくる感情と向きあってそれを吟味しているときに見せる、目が座り身じろぎもしない嵐の前兆がおとずれる。
ミニカーを放り投げることがいけないことだということは、大人から注意を受けているから理解はしている。
しかし、空想の世界のミニカーが、現実に戻ったときには異なるものに見えるのが耐えがたいのであろう。
それに戸惑いを感じて感情が大きく揺らぐ経験をしているのかもしれない。
夢を見て突然泣き出したり、さんぽしていて嬉しいことがあったときの喜び方が以前に比べてオーバーアクションになってきたのも、感受性が高まってきたためであろう。
人間にとっての感情は、肥大化した大脳新皮質によって隅に追いやられた旧皮質がつかさどる機能で、価値と事実を分離しないでバランスを保ってものごとを判断することができる能力でもある。
ゆっちゅには感情の豊かな人になってほしいと思う。