巣ごもり
「巣ごもり」という言葉がある。
鳥などが巣にこもっていることを言い、俳句の「春」の季語なっている。
散歩をしなくなってからのゆっちゅは、「巣ごもり」の状態にある。
ゆっちゅがある時からぱったりと散歩に興味を示さなくなったのはなぜか、気になっていた。
散歩の初めのころは、同じコースを歩きたがっていた。
途中からは、見知らぬ道を歩きたがるようになったが、自分が知っているものを見つけては大喜びをしていた。
そして散歩に行こうとしなくなった。
今では家から出るには、目的がなくてはならなくなった。
サッカーしに河川敷に行くとか、新しくできた橋に行くとか、砂遊びに外に出るとか、動機が必要になった。
散歩をしていた頃のゆっちゅの一番の関心事は
同じものを見つけることだった。
それが電柱であったり、自動車であったり、看板の文字だったりした。
あるいは、昨日と同じところにある橋や踏み切りであったり、黄色いクルマやミキサー車だったり、雪をいただいた高い山だったりした。
ゆっちゅは同じものを見ると、言葉を知っているものは名前を言ったり、言葉を知らなくても指をさして叫んだりして、いつしか「おんなじ」と言って、同一性を意識するようになっていった。
その象徴が「ぼうしやま」という言葉だった。
雪をかぶって周囲の山々からただ一座抜きん出た高い山を、自分がかぶる帽子との比喩で意識したときにゆっちゅが口にした言葉である。
そのとき、それまでの自分が目にしたり手で触ったりしたものと、耳から入ってくるジィの言葉を結びつけることで、おうむ返しにものごとを捉えていた段階から一歩前進した意識を持つようになったと言えよう。
ゆっちゅの「ぼうしやま」は隠喩の匂いがする。
そして、この言葉はゆっちゅが歩きはじめ自分の足を意識するようになったころ、大きな橋桁を「アシ アシ」と盛んに言っていたことを思い起こさせる。
ゆっちゅにとっての散歩は、見る聞くを含め自分の身体感覚との関連で世界を隠喩的に捉えるための探索だったように思える。
そして、最近になって散歩をしなくなったゆっちゅは、家で遊ぶことが中心となるなかで文を作りはじめるようになった。
それが「お仕事 くるよー」である。
これはゆっちゅが自分の頭で理解する意味を託して言葉を使っている例の一つと考えられる。
「仕事」が主語で、述語が「来る」という文構成になっていて、ゆっちゅの頭のなかにあるイメージを表現したものにちがいない。
なぜならジィにはその意味が伝わらなかったからだ。
しかし、ゆっちゅはその言葉に刺激されて広がるイメージの世界で、ミニカーを使ってひとりで遊ぶことができていたのである。