おトイレ訓練

ゆっちゅのオムツはずしの訓練がいよいよはじまった。

オシッコやウンチを意識し、それをトイレですませることを覚えることは、ゆっちゅの生涯にわたる自己の自然性との対話のはじまりとなる大切な学習である。

それは、ある意味では意識の王国の土台である自然との関わり合い方を学ぶ機会でもある。

オシッコやウンチは、大脳が作り上げた人間文化おいては表向きは否定し存在しないものとして意識によって抑圧管理されてゆく自然の象徴的なものと言えよう。

自らの動物としての自然性は、大脳新皮質が主導する社会では忌避され意識下に幽閉される。

偶然にも脳が肥大化するDNAにスイッチが入ってしまった人類は、意識をもち大脳新皮質の構造や機能に準拠することを合理的な根拠として、自らも含めた自然の分析とコントロールの術を文化として後世に遺すに至った。

自然の解明はまだとるに足りないものであろうが、現代社会を生きる我々はひとりの人間の頭脳からすれば膨大な知識と人工物にあふれた世界に身を投じられている自分を見いだす。

文化の全貌を俯瞰しえない頭脳は、どうかすると自らもその一員である人類の力を過大に評価し自らの因ってきたる自然をないがしろにかんがえてしまう。

科学が我々の身体を構成する細胞の全貌を解明するにはまだ多くの時間がかかることであろう。

我々はたったひとつの細胞から発生する、そして細胞だけが細胞を生むことができ、細胞は恒久的に生き続ける。

その細胞は自然がつくりだしたものであることを忘れてはならない。

自らの自然性を自覚するきっかけをあたえてくれる生理現象の学習の機会をどのように体験しそこで何を理解するかによっては、その子の人間形成に多大な影響を与えることになるとかんがえられる。

人間だって所詮は動物であり自然の産物にすぎないと言って開き直れるようになるには、然るべき学習を積みかさねて意識の王国の成文法ともいうべき文化の要諦を学んだ後でなければかなわない。

 

人間の自我形成期におけるオシッコとウンチの学習は、その人の自然との関わり方を百年にわたって方向づけると言ったら大げさに聞こえるかもしれない。

しかし、大脳新皮質の論理のみに基づいた文化的方面に過度に重きを置きすぎると、外なる自然のバランスを崩して環境汚染をひきおこすことにもなる。

急激な自然科学の発展により外なる自然に加えられた人為的抑圧、とりわけエネルギーを石油に極端に依存しヒト社会を一律に都市化しようとする傾向は自然との軋轢を生み、今日のさまざまな環境問題を招来した。

人類が英知を結集してきた文化が場合によっては人類の生存を脅かす誘因となるもの皮肉なものだが、その正体がはっきりしない自然を相手に、しかも外なる自然ばかりか自らも多くの謎をはらむ自然のうえに立脚して人類は文明を築いてきたことをよく認識するならば、個人が自己の自然性を性急に文化の枠にはめることには慎重であるべきである。

ひとが安定的でポジティブな意識の活動を行ってゆくうえで自身の自然との友好な関係は重要な意味をもつと思われる。

自然環境の良し悪しが人間の心理にあたえる影響はだれでも経験するところである。

 

ゆっちゅはようやく、オシッコやウンチが出てしまってからだが、おしえることができるようになった。

また、オシッコを催したときにトイレに行こうとするそぶりも見せる。

トイレに向かうゆっちゅの後からだれかがトレーニング・パンツから流れおちるオシッコをタオルをもって追いかけて拭きとるドタバタ騒ぎがつづいている。

しかし、だれも怒ってゆっちゅを問い詰めるようなことはしない。

自然から離脱し人間化することにおいては、失敗はつきもののようだ。

ひとは失敗から学んでゆくものだが、焦りから結果ばかり気にするような人間になってしまわないとも限らない。