ユッケへおくる言葉⑨

成長の過程で、これからも幾度となく訪れるであろう自己表出の暴走があらわれた。

昨日ユッケは水泳教室から帰ってきて、風呂に入り、夕飯を腹一杯食べたあと、ひとりごとを言いながら遊んでいた。

やがて、おもちゃを食卓の椅子の下に持ち出してきて、一台の車を椅子の上に置き、自分は椅子の下に入り、スパナをもって修理のまね事をして遊んでいた。

前日にユッケの影響を受けて車遊びに目覚めた、二歳上の女の子と熱心に言葉を交わしながら車遊びに興じたという。その影響なのか、いつものユッケとはちょっと違う感じがあった。

唐突にユッケは湯上がりにいつも履くステテコとパンツを脱ぎだした。また風呂に入るのか、とわたしが聞くと、ユッケはへへへ、ヘヘヘと含み笑いをしながら何かたくらみを抱いているような目つきで、こちらの出方をうかがっている。

はじめはやさしく言い聞かせるようにパンツを履くよう促がすわたしの言葉を無視して、ユッケはランニングの肌シャツ一枚で走りまわり、布団の上を転げ回ったり、脱いだパンツをなんども天井に放り上げてはしゃぎ出した。

のめり込むユッケに次第にわたしも語気を強めるが、ユッケはますますエスカレートして行くばかりだった。

取り押さえて手加減しながらユッケのおしりを叩いたりもしたが、いっこうにおさまる気配がなかった。

わたしは真剣になって感情的に叱っていいのか迷っていた。

結局、わたしはユッケから距離を置く方法を選んだ。

幸いばあばが、あと片付けの茶碗洗いをしていたので、ユッケが苦手にしている蝉でも取ってきて状況を変えようと、蝉を連れてくるぞとユッケに言い置いて、わたしは庭に出た。

ユッケは網戸を開けてランニングシャツだけで縁台に立ち、わたしに向かって「じぃじセミいた?」と聞いてきた。

蝉もコガネムシも見つけられなかったわたしは、ユッケのもとに戻り、じぃじのいうことが聞けないなら、ユッケと遊ばないと宣言したが、ユッケの耳には届かないようで、相変わらずパンツを放り上げては笑い声を上げて走りまわっている。

しかたなく、わたしは再び夜の道に10分ほどの散歩に出かけた。途中、路上でジタバタしている蝉の音が聞こえたので、これ幸いとつかまえようと近づいたところ暗かったので踏みつぶしてしまった。アブラゼミには可哀想なことをしてしまった。

家に戻ると、風呂から上がったママとばぁばに諭されてしょげてナイーブになっているユッケがいた。

じぃじにあやまるように、ふたりから再三促されてもなかなかあやまれずにいるユッケとわたしの間には、妙に他人行儀な空気が漂った。

わたしは戻ってから依然として沈黙を続けていた。

その空気を突き破るユッケの「ごめんね」の言葉が聞かれたのは、それから間も無くのことであった。

ユッケへおくる言葉⑦

このところユッケは自分の耳からさまざまな音声が聞こえてくることに自覚的だ。「耳に聞こえる」という言葉をよく使う。

電車や自動車、ヘリコプターや飛行機、救急車やパトカーなどの音は直接的に感受しているという感じなのだが、それとは明らかに違う。

近ごろ、ユッケの耳は正体がはっきりしない物音に敏感に反応する。

あるとき夜道を歩いていて、ユッケの足下にアブラゼミが飛び込んできた。

わたしはそれを手に取ってユッケに差し出した。蝉の背と腹をおさえていたので、蝉は羽を激しくバタつかせていた。

ユッケは恐れを抱いたようだ。それ以来、夜その道を通ることを忌避するようになった。

そんなことがあってから、夜道を歩いているとユッケは蝉の声が聞こえると言って「セミどこにいる」としつこく問いかけてくる。わたしの耳には聞こえないのだが、わたしが聞き逃すような微弱な音までもユッケは聞き取っているようだ。

ユッケへおくる言葉⑥

ユッケ三歳10ヶ月、感情の芽生えが見られるようになった。

感情と情動は違う。

感情は思考の発達に伴う。

自発的な行動が制止されたとき、間髪を入れず発動したり、しばしの空白の時間ののち激発する情動とは違い、意識が内向する時間経過があって、そののち静かに感情は湧出する。

近ごろユッケに泣き出すまでに数秒の経過時間を経るケースが見受けられるようになった。

そののちユッケは、悲しさを押し殺すように「しのび泣く」のだ。いわゆる「泣きべそをかく」のが見られるようになった。

自分がいけないことをしていると感じているときにそれをたしなめられたり、注意されて自分のしたことがしてはいけないことであったことに思い至ったとき、ユッケの感情は動き出す。

ユッケへおくる言葉⑤

柱に三歳9ヶ月のユッケの身長を、はじめて刻んだ。99センチメートルであった。

「あと1センチで1メートルだな」と言うと、柱の印を見つけるたびにユッケが「あと1センチで1メートル」と嬉しそうに言う。そして、ときどき思い出したように、その言葉を言う。

ユッケが自分を意識する、ひとつのしかたのようだ。

ユッケへおくる言葉④

「噛むと美味しい」

ごはんの時やおやつの時、物を食べながらユッケはそんな言葉を言うようになった。

ユッケは幼稚園では昼に出される給食をほとんど食べないらしい。

ヨーグルトや焼ソバなど食べ慣れたものが出たときは食べてくるようだが、お腹は一杯にはなっていないだろう。

ユッケの食事はまだ、離乳食の延長上にあり、歳の割には少食なようだ。

それでも、ユッケは活動量の面から見ても、同年代の子どもと比べて遜色なく、むしろ活発な方だと思う。

だからユッケは太らないのだろうし、ユッケの体はかなり燃費がいいと言えよう。

決して食が細いわけでもなく、食べ慣れていないものはなかなか口にしない傾向は必ずしも悪いこととは言えないが、もう少し大人の食べ物も食べてほしいと思い、「よく噛んで食べると美味しいよ」と食事の際にはたびたび語りかけ、噛む仕草をしてみせた。

やがて噛むことを意識するようにはなったが、相変わらず食べ慣れていないものには用心深い。

近ごろ新規に食べるようになったものは、いちごのポッキーだ。

「噛むと美味しい」と言って食べる。

幸いユッケは虫歯がない。

今夫婦で歯科医をなさっているところに通って、フッソで歯をコーティングしたり奥歯が虫歯にならないような薬を塗って予防をする治療を受けている。

二歳児検診で大暴れしてママや先生を困らせていた頃とは打って変わって、言うことを聞いておとなしくしているらしい。

とうとう最後の治療の日にユッケは眠気に勝てず、奥さん歯科医の腕の中で眠り出してしまったらしい。

幼児の治療では定評のある先生が「これは大物だ」と呆れていらっしゃったと言う。

丈夫な歯をもつことと人を信じることは、生きていく上での基本的な資質だ。

ユッケはいいものを持っている。

ユッケへおくる言葉③

咲いた♪ 咲いた♪ チューリップの花だ(ユッケは「が」ではなく「だ」と歌う)並んだ♪ 並んだ♪ 赤♪ 白♪ 黄色♪ どの花見ても(ユッケは「ど」をとても強く発声しウケ狙いにでる、それをきっかけにふざけモードに転ずる)きれいだな♪ 

幼稚園に行くようになって、ユッケは覚えて帰ってきた歌を披露するようになった。

最初はおっかなびっくり、慎重な歌い方をしたが、「じょうず、じょうず」と褒めると、例によってユッケはすぐにウケを狙った歌い方をするようになり、終いにはふざけてしまう。

慣れてくると、リクエストされるとユッケは得意げに自信に満ちて歌うのだが、やはり途中からウケ狙いにはしり、最後はやはりふざる。

そんなことが数日続いたあと、ママがユッケの歌うのにあわせてピアノを弾きながら、一緒に歌った。

そうしたら続いてユッケがひとりで、ピアノを弾いて「チューリップ」の歌を歌い出した。

もちろん楽譜通りにピアノを弾けないユッケは我流だ、しかしリズム感はあるので、ちょっとジャズ風で様にはなっている。

聞く者の心を自由にする音楽がそこにはある。

ユッケは音楽をドライブしながら、生命エネルギーをうまくコントロールすることができるだろうか。

自らのコミュニケーション願望を満たしてくれるものとして音楽を友とすることができるだろうか。

じーじはそれを願っている。

ユッケへおくる言葉②

叔父さんに買ってもらったラジコンの黄色いジープが故障して動かなくなってしまってから、ユッケは自らを「赤いジープ」と称して、たびたび赤いジープになる。

両腕を小脇に抱えて走り出す構えを見せると、腹に力を籠めて喉の奥から唸り声を響かせながら、片足で地面を蹴ってスリップをくりかえして、タイヤが空回りしている爆発的スタート直前の緊迫感を表すパフォーマンスがはじまる。

ユッケには黄色いジープを動かしていた時の記憶が色濃く残っている。

ユッケは黄色いジープが颯爽と走る姿よりも、でぼこ(でこぼこをユッケはそう言う)にはまってタイヤが空回りし後輪が砂煙を巻き上げる状態をめでた。

わざわさ障害物にジープを頭から突っ込ませ、後輪が空転し、行きなずむジープの様子を好んだ。

また雨上がりにできた水溜りを見つけると、水中の泥が溜まったところに黄色いジープをわざわざ置いてスイッチを入れて、ジープが身動きができず悪戦苦闘するという遊びをよくした。

そして、ある日、黄色いジープは力尽きた。

叔父さんに修理をお願いしたが、まだ戻ってこない。

そして、ユッケは待っている間に自らが黄色いジープの代わりになる遊びを編み出した。

失ったものを自らの身体で代用することを体得した。

記憶をもとに想像したものを表現するすべを、ユッケは学んだ。

その技術は、これから先、物事が思うようにならず落ち込んでしまったときには、立ちあがる力を呼び起こし、順調に行っているときには、更なる活力をもたらしてくれることだろう。