自己中心の生活

ゆっちゅのわがままが強まってきたことと、ゆっちゅの行動が外向的な傾向から内向的なものに変化してきたことは連動しているように思われる。

外向的だったときは、さんぽの迎えに行くジィを待ちきれない様子で玄関のドアを開けるや飛び出さんばかりに外に出ることに熱心だった。

それがこの数日来さんぽに出るのを渋るようになった。

いつも通りにいつもの時間にゆっちゅのところを訪れると、ゆっちゅはジィを家のなかに誘い入れる。

初めはゆっちゅの持っているプラレールを作ったり、トミカのミニカーで遊んだあと、今日はさんぽをしないのかと思い帰宅しようとしたら、さんぽをすると言い出したので、付き合うことにした。

一時間ほど、河原まで駆け足して行ってサッカーをした。

次のときも同様に家で遊んで、ジィが帰ろうとしたら、サッカーしに行くといって家を出て、家の周辺でしばらく遊んでから、同じ道を通って河原に向かった。

三日目は、ゆっちゅの家の滞在もそこそこに、ほとんど遊びの相手もせずに、ゆっちゅを外に連れ出そうと仕掛けてみた。

「ゆっちゅがさんぽしないなら、ジィは帰るよ」と言うと、サッカーするといって外に出てきた。

やはり家のまわりで少し遊び、その後河原まで駆け足したり歩いたりして行って、サッカーをしてジィの家に向かい、そこでママと合流してゆっちゅは支援センターへ行った。

ゆっちゅは支援センターが大好きで、いつも閉館までいる。

その日も夕方、支援センターから戻ってきて例によってジィの家のガスポンベやガス管を確認してから、庭の畑をいじっていたときに、ゆっちゅは以前から気にしていた庭先の縁台に立てかけておいた自転車の空気入れを触って、これは何か問いかけてきた。

用途をかいつまんで説明して、ハンドルを引いたり押したりして押し出された空気をゆっちゅの手や顔に当てて、「これが空気で、タイヤのなかに入れるんだ」と言うと、自分でハンドルを動かして研究しはじめた。

しばらくして満足したのか空気入れは放置し、門扉のフック式のカギを外して、さんぽしようとジィを誘ってきた。

遠慮がちににこやかな表情を見せていたが、目には拒否することを許さない強い力がこもっていた。

仕方なく神社で一時間ほど遊のに付き合った。ゆっちゅは帰ってくるなり食事も入浴そっちのけでふとんに突っ伏して数秒で寝入ってしまった。

この日、終始ゆっちゅは自己中心的に行動していた。

眠りについたゆっちゅの寝顔を見ていたら、この数日でゆっちゅの顔はたくましさが増し意志の強さがにじみ出ていた。

 

家で遊ぶ

ゆっちゅは近ごろ遠くへ行くことより家の周辺をめぐり歩くことを好む。

さんぽに出るのを拒み家で遊ぼうと主張したり、ゆっちゅが暮らしているアパートの一室の外周で遊ぶのが増えてきた。

さんぽするにしても道の選択に迷いがなく、目的は河原でサッカーをすることで、いつも同じ道を走ってゆく。

サッカーに満足するとジィの家に行って、家の周りを歩きガスポンベを確認して、庭の土いじりをするのが今のゆっちゅの行動パターンになっている。

そんなゆっちゅの行動には、ある種の「まとまり」が現れてきているように思える。

 

これまでのさんぽが電柱と電線にはじまり道をめぐり町のそこかしこを散策して、道で出会う人や車、電車が通る線路や踏切、川や山々の景色などの広い世界に関心を示していた。

また、橋、足、柱、橋梁、鉄橋、窓、床、塀、屋根、壁、雨戸、網戸、門扉、ガラス戸、戸袋、すだれなどの建築物への興味は、家の構造の理解へと進んでいった。

さんぽコースには核家族が暮らす規模の戸建ての家が多く、そのほとんどにガスポンベが設置されている。

ゆっちゅはそれを確認して歩き、家にはガスポンベがあることを知り、節分の折、ジィの家の周りを豆まきをして、それがジィの家にもあることを知った。

また、自分の家とジィの家での生活を通して、家というものを自分の身体の延長線上にとらえ、家には一定の様式、つまりゆっちゅにとっての「同じかたち」があることを、水、ガス、電気を使っていることを通じて理解しているように思われる。

しかも、よその家と自分の家の区別も分かっていて「よそのお家だよ」と言うと、足を踏み入れない。

 

ゆっちゅには、自分と一体のものとしての住居の概念がつきはじめているのかもしれない。

そして、自分が住まう家を意識するようになって、家で遊ぶ傾向が顕著になり、それに歩調を合わせるかのようにママに甘える行動が目立つようにもなってきた。

ゆっちゅの性格形成が始まったのか、時折りゆっちゅの個性と呼べるようなものがキラリと現れるのが認められる。

ボクの足

最近のゆっちゅの歩き方に特徴的な歩き方がある。

足を踏み出すとき、つま先を地にこすりつけるようにして地面のデコボコをつま先でなぞって、引っかかってバランスが崩れても予想していたかのように態勢を立て直すのを楽しんで歩くという歩き方である。

予期せず引っかかって転びそうになっても、体勢を立て直してから、転びそうになったことを復習するように「おっとっとっと」言いながらよろけて見せたり、わざと尻もちをついて見せたりする。

そして、サッカーして遊ぶときにはボールを蹴る直前に小刻みに足踏みをして、タイミングを見計らって蹴る動作をするようになった。

はじめは左足のトーキックだけだったが、「右足でも蹴ってみな」と言ったら、すぐ右足で蹴ってみたがうまく当たらなかった。

数日経ってからも右足で蹴ることを忘れずにいて積極的に右足キックを試み、二、三日したら結構うまくヒットするようになった。

うまく当たったときは、「速い」とか「強い」と声をかけてやっていたら、かなり強力なシュートをするようになってきたので、そろそろ家の中でのサッカーは禁止にしなくてはならなくなってきた。

そして、今日は直径25cmぐらいのゴム製のサッカーボールを自分で抱えもってさんぽに出かけた。

道路に出てすぐ蹴ろうとしたので、「道路はカーカーが来るから、河原に行ってやろう」と言うと、ボールをジィに預け、「よーいドン」で走りはじめた。

途中、寄り道もしないで、ほぼ河原にまっしぐらに向かった。

河原では、ボールを蹴ってよく走りまわった。

そのうち、ボールを蹴る研究のようなことをはじめた。

右足を軸にして片脚で立ったまま、左足を宙に浮かして二、三回蹴る動作をする。

そして、ボールから離れている距離を徐々につめて行ってボールをキック

するという行為を熱心にやりはじめた。

目前のボールを無意識に蹴るのとは違って、明らかに自分の足を意識して動かしている行為であった。

予想する能力

週のうち五、六日は、同じことを繰り返していることが多い。

さんぽや食事の世話、入浴、家への送り届けなどだ。

例えば入浴中には「右足洗います、12345、ハイ次は反対の足、12345、ハイ、左の手って、12345、・・・ハイ、次はオシリ・・・」と洗う個所を言葉にする。

また、風呂から上がるときは「10本アニメやろう」と言うと、近ごろはゆびを折ったり伸ばしたりして二十まで数える。

因みに「10本アニメ」は、「おかあさんといっしょ」というテレビ番組のなかで、10本の棒が協力しあって困難を克服したり、仲良く遊ぶ様子を描いたアニメーションである。

もちろん、習慣となっている事柄はジィとの付き合いだけではない。

そんな習慣となっている日々の生の営みのなかで、ゆっちゅはコンテクストを読み、しだいに過去と未来へ時間感覚を広げ、統覚の習慣をつけてきているのだろう。

近ごろは、聞き分けもよくなり、これからすることをゆっちゅが理解できる言葉であらかじめ予告して置くと、おとなしく言うことを聞くようにもなった。

それは言葉の習得がかなり進んでいることを物語っている。

言葉がゆっちゅの混乱した心の状態に秩序をもたらすこともわかっている。

機嫌の良くないときでも、ゆっちゅの口から言葉が出るとすぐに機嫌は良くなるのも、やはり言葉の力だろう。

 

そんなゆっちゅも、ときどき文化の匂いがしない場所に好んで行くように思えることがある。

今日は珍しく河原の奥に入った。

昨年の雨台風があってからは、河原の奥の方まで足を延ばすことがなかった。

ゆっちゅも何か恐れのようなものを感じていたのかもしれない。

ようやく土手に近いところの川岸に降りて、石投げ遊びをするようになったのは最近のことである。

台風の前にショベルカーやダンプカーが川底から石を採取する作業が連日にわたって続いていたのを見に行ったり、作業が終了して広い範囲にわたって綺麗に整地された後に遊びに行ったりした頃の風景とはまったく様変わりしていた。

ゆっちゅほどある大きな石がそこここに転がっており、土砂と石でうず高く盛り上がった地形は自然の力の驚異の痕跡を生々しく残しており、一瞬、石と砂の荒野に迷い込んだような錯覚を覚えた。

はじめは抱っこをせがんでいたゆっちゅだが、慣れてくるとひとりで歩いた。

ひと足ひと足、足の置き場を選んで歩き、自分の身体ほどの大きさの石に立ったときのゆっちゅの姿には、時の流れとたくましい成長のあとを見た気がした。

 

 

言葉の抑揚

「ガス  ボン  ベー」は、ゆっちゅのガスポンベの言いである。

「ガス」と「ボン」と「べー」の間にそれぞれひと呼吸間を取り、そして「ガス」より「ボン」が強く「べー」は「ボン」よりさらに強く強調される。

さんぽ中に家々のガスポンベを見つけると、得意げに唱える。

そのこだわり方は、「でんちゅー(電柱)」以来だ。

もちろんゆっちゅの中では、ガスポンベとガスレンジでの煮炊きや風呂のお湯とのつながりは理解しているはずだ。

肝腎なのは、「でんちゅー」と「ガス ボン べー」の言い方の違いである。

どこの家にもガスポンベがあり、ガスポンベがあるということは、同じようにガスレンジで煮炊きし温かい風呂に入ることも了解しているに違いない。

これもゆっちゅにとっては、「同じ形」であるに違いない。

「ガス ボン べー」の言い方は、そう言うとジィに「受け」ることを確信している。

そして、自分でも「受け」ているのだ。

そんなときは興奮して、よくジィの頰をたたいたり、ジィの顔を両手で挟んで自分の顔をジィの顔に打ちつけてきたりする。

ボディ・ランゲージがともなうのだ。

ゆっちゅはアナログなコミュニケーションを、実に豊かに発信かつ受信している。

 

ボディ・ランゲージ

近ごろは30分もかからないで、自分の足で1kmの道のりをほぼ走りきるほどになった。

しかも、ゆっちゅが好む道は、古くからある道で随所に道祖神が祀られていて、道幅も狭く両側に家々が立ち並んでいる。

その道は山すそを横切るようにつけられていて、昔から人々が歩いて行き来したものらしく、軽いのぼり下りがあるものの人に優しい道である。

そんな道を、通勤通学の時間帯が過ぎた昼ごろ、車が来ないのを見計らって「よーい ドン」のかけ声とともに走るゆっちゅ、時おり「おっとっとっと」と言ってよろけて座り込んで見せたり、ジグザグに蛇行して走ったりして楽しそうだ。

因みに、「おっとっとっと」と言ってわざと転んで、それに続いて、酔っぱらって足元がおぼつかないように装って見せるのは、以前にパパがゆっちゅを抱っこして家に帰るときにジィの家の下水管の突起につまずいて転んだことと関係ありそうだ。

ゆっちゅなりに身体を使って何かを表現していると思われる。

もしかすると、そのポーズを見せるのは、ゆっちゅが以前につまづいて転倒した場所だとすると、「じぶんはここで、以前転んだことがあったよね」とボディ・ランゲージでコミュニケーションしていると考えられる。

そして、笑いは、「でも、今のボクは転んだりしないよ」という自信の現れなのかもしれない。

確かに、ゆっちゅの最近の走り方や歩き方には安定感が見られるようになってきたのだ。

 

ゆっちゅがボディ・ランゲージをしているとすれば、彼の頭の中に何らかのイメージがあり、

そのイメージに似せて自らの身体を動かしていると考えることができそうだ。

パトカーに乗る

その日はゆっちゅのさんぽコースのひとつで、隣町にある高校の校内マラソン大会が行われていた。

そのための交通整理にパトカーが一台来ていた。

近くで見ようと「パコカー パコカー」と勇んでやってきたゆっちゅは赤い警告ランプが動き回るのを興奮して見ていた。

しばらくすると興奮は収まり、今度はジィのマネをして走る生徒たちに声援を送っていた。

女子の部が終わり、男子の部の出走までは、30分以上間があったので、さんぽの続きをしようとしたら、おまわりさんが声をかけてきた。「ぼく パトカー 見せてあげるから おいで」といって誘ってくれた。

おまわりさんは運転席のドアの鍵を開けてドアをひらいた。

乗っていいよと言ってくれたので、「ゆっちゅ 乗ってみる」と聞いたが、うんともすんとも言わない。

ゆっちゅの脇をかかえて運転席に座らせようとしたら、嫌がりもせずされるがままになっていた。

ゆっちゅはなにも言わず神妙にしていたが、降りるというので下ろした。

また、おまわりさんが「ハンドル触ってもいいよ」とハンドルを動かしながら言うので、それを見ていたゆっちゅをかかえてもう一度運転席に座らせて、先ずジィがハンドルを動かして見せて「ゆっちゅもやってごらん」と言うと、ゆっちゅは自分からハンドルを握った。

その間、ゆっちゅは終始無言で神妙な顔をしていた。

ゆっちゅがパトカーを降りた後、おまわりさんが今度は警棒と盾を、実際の使い方を実技しながら見せてくれた。

それも無言で神妙な面持ちで見ていた。

他にもいろいろと、おまわりさんがゆっちゅの気を引こうとしてくれるのだが、ゆっちゅは興味があるのかないのかはっきりしない様子だった。

そのうち興味が失せたのか背を向けてさんぽの続きをしはじめた。

やがて男子生徒たちが続々と走って来ると、「がんばれー」と声援を送ったり、並走したりして追いかけて行った。

 

パトカーに乗った経験は、実はゆっちゅに相当強い印象を与えたことが後でわかった。

そのときは関心のあるものに対して余りに意識を集中しすぎたために、感情は抑制されてしまっていたようだ。

家に帰ってママに「パコカーにのった」と言っていたと聞いたし、支援センターでもパトカーのおもちゃを手に持って思い出したり、町でパトカーを見かけたりしたときにも「パコカーにのった」と言っていたらしい。