ゆっちゅのマドンナ

ゆっちゅが最近好んでやる遊びの一つに、空気で膨らませた全長1mほどのビニール製のイルカのぬいぐるみに跨ってから、そこを飛び退いてすぐさま自分の顔を覆った水を払いのけるしぐさをするというのがある。

水族館でのイルカショーの経験を再現しているようだ。

ほかにも家のなかでの遊びを好むようになってから、ミニカーやボール遊びに新たにぬいぐるみと遊ぶメニューが付け加わった。

パパとママの結婚式の記念の品であるネコのペアのぬいぐるみは、ゆっちゅのお気に入りだ。

女ネコはママに渡し、自分は男ネコをもって、抱きしめたりチューをしたりしっぽで自分の鼻の頭を撫でたりして、ぬいぐるみを交えてママと二対二で遊ぶ。

また、イヌやクマやパンダのぬいぐるみの横に身を伏せて顔を近づけて、ミニカーでよくやるような臨場感を楽しんでいる様子が見られる。

人はものごとを「物語」を通して認識すると言われるが、ゆっちゅもいよいよ「ものがたり」をつくるようになったのだろう。

 

ジィの家の近くに、ゆっちゅのマドンナのカンナちゃんが住んでいる。

カンナちゃんはゆっちゅより半年ほど年上で、しかも女の子とあって、随分と大人だ。

支援センターでも、ときどき遊ぶ機会はあるようだが、カンナちゃんにとってゆっちゅは「お友だち」のひとりに過ぎない。

カンナちゃんが台の上で歌うとき、いっしょに台に上がって踊ろうとすると、「お友だちはちゃんと座って」とたしなめられる。

ゆっちゅは観客の一人としておとなしく座っていなければならない。

それがこのコロナ騒動で支援センターで遊ぶこともままならなくなり、思いがけずカンナちゃんとふたりで遊ぶチャンスがゆっちゅに訪れた。

その日ジィがゆっちゅに時計を指差して、「長い針が6のところに来たら、カンナちゃんが来るよ」と10分ほど前に告げておいた。

しかし、

20分経ってもなかなかやってこなかった。

そのうち、ゆっちゅも待ちきれなくなったのか、時計をゆび指して声をあげた。

針は6を回っていた。

直接河川敷へ向かったのかもしれないと、ゆっちゅもママと出かけた。

ところが河川敷に行ってみたところ、休校で行き場を失った小学生や中学生たちもサッカーや野球でうっぷんを発散していたらしい。

そういえば高校生と思われる輩もかつての暴走族の再来を思わせるような爆音を立ててバイクを疾走させているのを、近頃よく耳にするようになった。

河川敷には幼児の遊ぶ余地がまったくなかったといって、ゆっちゅとカンナちゃんはママたちに連れられ戻ってきて、ジィの家の庭で遊ぶことになった。

はじめカンナちゃんは、庭の土に興味を持ったらしくシャベルやバケツをつかって土を掘って、中から現れる根や葉や小枝などに夢中で、ゆっちゅが気を引こうとアクションをしかけるのだか、ゆっちゅのことなど眼中にないといった扱いだった。

ゆっちゅもそうだが、この年頃の子どもは土に並々ならぬ興味を抱くようだ。

ゆっちゅはなんとか仲良くなりたくて近づくのだが、カンナちゃんは土いじりに夢中になっている。

ゆっちゅの身体が偶然当たったときは「お友だちはぶつかってきたのに、ごめんなさい言わない」とカンナちゃんに詰問されたうえ、名前も呼んでもらえないゆっちゅはひとりでブルドーザーのおもちゃで遊ぶしかなかった。

そんなゆっちゅの姿をガラス戸越しに見ていて、助け舟を出したかったが、ジィは我慢して家の中で本を読んでいるうちにいつのまにか寝てしまった。

眠りから呼び戻されたのは、近所中に響き渡る晴れやかな声だった。

とてもふたりだけのものとは思われないほどに奇声が入り混じってにぎやかだった。

カーテンを少し開けて見てみると、ふたりはおままごとの最中だった。

カンナちゃんは普段けっしてやらないクルマ遊びに付き合ってもくれたらしい。

その日の夜、お風呂に入っていたとき「とってもたのしかった ユウスケくん大好き」とカンナが言っていた、という情報が寄せられた。

ついにゆっちゅの存在がカンナちゃんに認知されたのだった。

 

 

ユズとハル

小学三年の姉「ユズ」と一年の弟「ハル」という、ゆっちゅと同じアパート群の別棟に住む姉弟と遊ぶ機会があった。

高台の中腹に建つアパート群の土盛りのためのコンクリートの壁や金網のフェンス、駐輪場の屋根、各家庭で使うガスを一括管理している大きなガスタンク、周りは金網で封鎖されているが隣接する駐輪場の屋根からは飛び移れる、上には子どもが二、三人立てる大きさだ。

それがユズとハルの遊び場だ。

ある日、二人は3mはあるコンクリートの壁を駆け上がりその上に設置されたフェンスにつかまり難なくそれを跨ぎ越して、ゆっちゅの家のベランダの前に現れた。

たまたまその日ベランダで洗濯物を干していたママが、ユズとハルの二人と言葉を交わしているところに、ゆっちゅが顔を出した。

ユズとハルに「いっしょに遊ぼう」と誘われて、家の中で遊ぼうとする傾向が強かったゆっちゅが、外に行くと言い出した。

ゆっちゅの家のベランダの下は、傾斜になっていて長く伸びた芝が枯れて滑りやすくなっている。

ユズとハルはいつもしていることなのだろう、そこでスライディングしたり体を投げ出して、滑りを楽しんだ。

二人の激しい動きに圧倒されたゆっちゅは、はじめ距離を置いていつもの自分なりの遊びをしていたが、少しずつマネをするようにひとりで尻をついて土の部分で滑ったりしはじめた。

それを見たユズとハルは、「こっちの方が滑るよ一緒にやる」と言葉をかけてきた。

気のおけない身近な人間は別として、ようやく知らない人に対しても警戒心がゆるみだしてはきたものの、やはり初めて言葉を交わす相手には緊張するゆっちゅなのだが、それはそれ子ども同士の連帯感なのかすぐに馴染んで、ユズとハルに代わる代わる抱っこされて草すべりをした。

そうしている間に、草に引っかかってゆっちゅがユズのひざにあごを打ち付けて泣いてしまった。

それがきっかけとなって、ユズとハルは再び自分たち本来の遊びとへ向かっていった。

二人は高さが3m近くなるフェンスの上に立ち、1mほど離れた駐輪場の屋根に飛び移り、そこからまた1mほど先のガスタンクの上へと、ムササビのように飛び渡るかと思えば、2mほどの高さから飛び降りたりと、まさにトム・クルーズジャッキー・チェン張りのアクロバティックな動きをしはじめた。

かつてのジィ自身もユズやハルの年頃にはかくやと思い出しつつも、ハラハラして見守っていたが、ゆっちゅも感化されたのか、何度もフェンスの上から下を覗きこもうと、抱っこをせがんできた。

そのうち、姉が草むらにカナヘビを見つけると、姉弟は先を争ってカナヘビを捕まえようと這いずりまわって追い回し、爬虫類が大好きだという姉が捕まえ、弟は悔しがった。

因みに弟の方はサソリが大好きだと言う。

捕まえたカナヘビをゆっちゅにも見せてくれたが、関心を示さなかった。

「少し遊んだら逃がしてあげなよ」と言うと、「分かってる」「放してやらないと、また捕まえて遊べなくなるから」という答えが返ってきた。

どうも同じカナヘビを捕まえて遊んでいるようだ。

思いがけない、春休みの前倒しに、去勢されかけた野生の馬が原野に放たれたのを見る思いがした。

教育されて文明化される前夜のチビッコ・ギャングの心意気に、ジィはなぜか妙に感動を覚えた。

新型コロナウィルスの余波のお陰で、自然に近い子どもたちの生のエネルギーに感染し、ジィも子供の頃にタイムスリップして懐かしい思いに浸ることができた。

それはさておき、日ごろジィのすることを素早く真似るようになったゆっちゅの目に、ユズとハルが見せた野生味あふれるパフォーマンスがどう映ったのかが気がかりだ。

「もう一回」

ゆっちゅはいつ頃から「もう一回」という言葉を使いはじめたのだろう。

興味を感じると「もう一回」と言って再現することを求めてくる。

その際、ゆっちゅは再現可能なものとそうでないものとの区別が不思議とできているのだ。

さらに、それがゆっちゅ自身で再現できることなのか、自分ではできないため大人に頼らなければならないことなのかも、ある程度わきまえているように思われる。

「もう一回」を言うときは、一回で済むことはまずなく、三回四回と再現を求めてくる。

しかも、それはゆっちゅがはじめて経験することのように思われるものに関することが多い。

そしてまた、以前によくしていたことでしばらくやっていなかったことを、久しぶりに経験した場合にも「もう一回」は使われる。

同じことを繰り返して経験することを求めるということは、そこにパターンがあるということであり、そこに繰り返し現れるパターンをみつけて再度確認する必要をゆっちゅは感じているということだ。

それを「意味」と呼んでもいいし、ゲシュタルトでいう「地」に対する「図」と言ってもいいが、ゆっちゅがパターンに気づいているということはコンテクストを読んでいると言っていい。

同じことが繰り返えされるということは、そこに確固としたパターンがあるということであり、そこにコミュニケーションが生まれる素地があるということである。

だから、ゆっちゅは繰り返し、繰り返し「もう一回」を連発するのだ。

再現可能性は科学という学問の基本要件である。

そして、繰り返すことで習慣となってゆくのは、学習のはじまりでもある。

走ってダイブ

おしゃべりが止まり、身じろぎもせず、目の焦点は結ばれることなく中空にとどまったままになっているといったことが、ゆっちゅにはときどきある。

耳は外界の音を受け入れてはいるが、特定の音を聞き取ろうとしている様子ではない。

すべてが止まっているといった風である。

寝ているわけではないので、当然意識はあるはずだが、なにかを意識しているそぶりはない。

寝入りばなや目覚めのときの、意識と無意識とのはざまを彷徨うというのとも違う。

ゆっちゅは起きているときには、大人とのおしゃべりを通して大人の表情を見、大人の視線の先にあるものを見ようとする。

そして、時折りひとり言を言うように「ゆっちゅ語」をつぶやく。

目から入る情報と耳から入る情報を一致させるべく日々脳の神経回路は調整に余念がない。

しかし、パソコンがセットアップされたり、リセットされるときのように空虚で沈黙した時間が、ゆっちゅにも訪れる。

そんなときは、脳が新しいアプリを取り込んでバージョンアップするために必要なアルゴリズムの手続きを履行している最中です、とでもいうような無表情な顔つきをしている。

 

ゆっちゅの遊びのひとつに、「走ってダイブ」がある。

家のなかでいちばん遠い端から「よーいドン」のかけ声で駆けてきてジィの懐に飛びこむというものなのだが、はじめの頃は自分で「はやーい はやーい」と言いながら自画自賛しながら全力で駆けていた。

それが近ごろ、走りはスローモーションで自分の後ろ足のフォームを確認するようなそぶりをしながらゆっくりとした動作で近づいてきて、ジィの手が届くところまで来ると、「はやーい」と言いながらダイビングして身を預けてくる。

それを四、五回繰り返す。

うれしそうに「はやーい」と言うので、冗談を言っているのかとも思ったが、冗談がわかるわけもないし、わかっているならなおさらのことだが、ともかくもゆっちゅは何か速いものを感じ取っているとすれば、ゆっちゅは自分で「はやい」という言葉の意味を知ってつかっていると言っていいわけだ。

 

 

アリの冬眠

文化的なものへの関心が高まるほど、自然から遠ざかる度合いが大きくなる。

それは当然のことなのであろう。

聞き分けが良くなるということは、人の世の約束ごとに順応して行くということだ。

おしゃべりを覚え、おとなのおしゃべりから世界の見方を学びとる。

気が遠くなるほど長い時間をかけて、世界像を構築するために、大人たちのおしゃべりのコンテクストを解読する。

「子供と接するおとなはみな、たえまなく世界を描写する教師であり、その子が描写されたとおりに世界を知覚できるようになるまで、その役目を果たしつづける(メキシコ北部に住むヤキ族の老人のことば)」

ゆっちゅの顔には、以前のような鋭く射抜くような目の輝きは影をひそめ、柔和さがよく現れるようになった。

そして、それは相手の表情や行動から、自分の対応のしかたを直感的に選び取ることができるようになってきたことと関連するみたいだ。

自分を取り囲む大人たちとのコミュニケーションのアクセス・コードがわかるようになってきた分、自然への関心は意識の上では稀薄になってきたかも知れない。

子供用の椅子に座ってアンパンマンせんべいをかじりながら、背もたれに身を反りかえらせて「いい感じ」という言葉を連発するのがまるでオヤジ風で周囲の笑いを誘っていた。

夕方、河川敷のグランドにサッカーしに行ったとき、ゆっちゅがまたもやしゃがみ込んで「アリ」と言った。

最近よく見る行動なのだが、そこにはアリの姿は見えない。

ジィもまた、例によって「まだ寒いから土の中でネンネしてるんだろう」などと応えてはみたものの、ゆっちゅの思惑がみえない。

ルーティン

ゆっちゅは近ごろルーティンにこだわっているようだ。

支援センターに行くと、下足置き場に座って自分の靴を「とって」と言いくつ箱に入れるように指示し、名前が書いてある名札(子供の名前がわかるようにつける決まりになっている)をつけるように自分の胸を指し示し、自分で柵(安全のために施してある)の扉のフック状のカギを開けて中に入るという段取りを主体的に行うそうだ。

ジィの家に来たときも門扉を開け、玄関のチャイムを鳴らし、ジィが出るとジィに靴を履くように指示し家のまわりを先頭に立って歩き、ガスボンベやガス管を確認し、庭の畑の土をシャベルで掘ったり、自電車の車輪と空気入れを調べたりしてから、門扉を自分で開けてさんぽに行こうとアイコンタクトでジィに同意を求めてくる。

近ごろ、以前のようなさんぽをしなくなったことは、このルーティン、すなわち決まりきった手順にしたがって行動するようになったことと関係がありそうだ。

ゆっちゅには自分を意識しながら行動パターンを形成する「統覚の習慣」が始まっているのだ。

ルーティンを乱されると怒り出すところを見ると、統覚は感情的な判断と密接な関係があり、そこにはある種の合理的なアルゴリズム(演算規則)が組み込まれていると考えられる。

本能が組織化されて情感が生まれる過程で、意識はその情感と縒り合わさりながら自らを同一的なものとして意識してゆくのだろう。

感情的判断にもある種の合理性があると言われる所以でもある。

なんといっても感情は無意識や身体的な知、つまり広大な暗黙知と結びついており、それは人間精神のエネルギー源であり、理性的な知の土台でもある。

 

 

 

「楽しみぃー」

ジィの顔を見てにっこり笑ったり、両目を強くつぶって愛想笑いをしたり、かと思えば鋭いまなざしでジィのこころを読み取ろうしたりする一個の人としてのゆっちゅがいる。

生のさまざまな刺激に対して、それぞれ異なった反応しながら複雑な感情のパターンを人との間に織り成してゆく。

本能が組織化されて情感となってゆく過程で、言葉や芸術や科学技術は大きな役割を果たす。

 

ゆっちゅが今興味を抱いている自転車が置いてある庭に小さな畑を作っているのだが、土にも関心を抱いているので、クワを使って土を耕して見せた。

今年はトマトとナスとキュウリを栽培して見せてようと思って、今から「トマトとナスとキュウリを植えよう」と、ゆっちゅに話しかけている。

ゆっちゅにとっては、自転車もクワも文明の利器、人類が生み出した科学技術の結晶、つまり文化である。

また、前回のNHKの朝の連続ドラマ「なつぞら」や今回の「スカーレット」のオープニングタイトルバックの映像を食い入るように見る。

なつぞら」ではドラマの内容にはほとんど無反応だったが、「スカーレット」では次の場面に反応を示した。

息子が父の大切な大皿の陶器を割ってしまうシーンで、身じろぎせず視線が虚空に固定される、ゆっちゅが感情を爆発させる寸前に見せる表情が現れた。

ゆっちゅ自身も意に沿わないことがあると、物を投げて、投げてから「投げない」と自問自答して湧き上がる感情をコントロールしようとして、抑えきれなくなると怒りを爆発させることがよく見られる。

ドラマに共感したと思われるわけだが、テレビドラマというメディアによって情感を共有していることは間違いあるまい。

さらにオープニングのタイトルバックの映像はドラマ内容をシンボリックに表現するために密度の濃い美的表現が試みられるものだ。

タイトルバックの映像と音楽を感受しているときのゆっちゅの顔には感動している様子がうかがえる。

そこには何か美的なものが無意識下にある本能を組織化し、心地いい情感として意識へのぼってゆく様が想像される。

 

ゆっちゅは近ごろ、昔から変わらないピアノの買取りのコマーシャルのなかの文句「その 通ぉーり」にはまっている。

前後の脈絡なしにこの言葉を言うと、何が面白いのか必ずと言っていいほど笑いながら復唱する。

今後、どのような状況で、どんなタイミングでゆっちゅがどんなコンテクストを読んで、この「その 通ぉーり」を使うのだろう。

「楽しみぃー」、因みにこれもゆっちゅの愛用語である。