「右まわり左まわり」
その場に立って天井を見あげてぐるぐる回る遊びをゆっちゅは以前からやってはいたのだったが、右回りと左回りの区別がわかるようになった途端に「右まわり 左まわり」と唱えながら右に回ったり左に回ったりすることが一段と楽しくなったかのように夢中になった。
それまでの回転遊びが身体からの内的な触発によるものとするなら、言葉をともなった回転運動は脳の回路を経てじぶんの身体をコントロールをしはじめたことを意味している。
ところで、じつはその直前に「ジィジの右手はどっち」と言って、ゆっちゅの目の前に両の手を差し出したところ、ゆっちゅはじぶんの右手でジィの左手をつかんだので「それはジィジの左手だよ」と言って右手を差し出し「こっちがジィジの右手」と言ったところだったのだ。
そうしたらゆっちゅはくるくると走りまわりだした。
「それは左まわりだ」と言ってやった。
そうしたらゆっちゅは向きを変えて回りだしたので「それは右まわりだ」と言うと、4、5回るたびにゆっちゅは向きを変えて「右まわり」「左まわり」と言いながらしばらく遊びに興じていた。
まだ、ゆっちゅにとっては他者の左右の理解はハードルが高いようだ。
右と左
「右」と「左」という言葉をつかいはじめたゆっちゅは、身体をひねる運動をするようになった。
蛇行して走ったり、上半身を90度ひねったままで走ったり、またちゃぶ台の上から跳びおり身体を90度ほど旋回して着地したりする。
すでにゆっちゅはじぶんの左右の手を区別することはできている。
手を洗ってやるときに「左の手ってを出して今度は右の手って」と言うとちゃんと出してくる。
足の方はサッカーボールを蹴るときに左でのキックは得意なのだが「右でも蹴ってごらん」と言うと右で蹴る。
うまくヒットすると「遠くまで行ったね」と言ってうれしそうに笑いかけてくる。
自転車に乗っているときに、「つぎ、左にまがって鉄橋をくぐりま〜す」「右にカーブしま〜す」「前方からくるまが来ました。左にまがりました」などとアナウンスしながら走っている。
また、ゆっちゅのすきな「じゃり線橋」から車道にでる足下に「みぎをみて ひだりをみて」と書かれている標識がある。
それを読みあげてからジィは右を見て左を見て「カーカー来てないね オッケー」と言って車道に出るようにしていることなども、文字に関心をもっているゆっちゅには「右と左」いう言葉を使うきっかけを与えているのかもしれない。
さて、今度はジィジの手や足の左右の区別ができるだろうか試してみよう。
すわるとおりる
ゆっちゅは「すわる」という言葉を「椅子に座っていて、こっちに来ないで」という意味でつかう。
また、「あっち行くよ」は「あっちへ行って、こっちに来ないで」という意味でつかっている。
これらの言葉は、ゆっちゅが自分のテリトリーを意識していることをものがたっている。
「おりる」という言葉を「こっちにきて座れ」という意味でつかっていたので、そういうときは「すわる」と言うんだよと教えると、次のときにちゃんと「すわる」と言うようになっていた。
カンナちゃんと遊ぶようになってから、ゆっちゅは二人でいっしょに遊ぶことをおぼえたようだ。
それにともなってか、相手に指示をだす言葉をつかうようになってきた。
相手をじぶんの思うように動かすことが面白いことに気づいたものと見えて、散歩の際にも、ジィに注文をだしてくるようになった。
その日は、いつもゆく遊具は滑り台が一つあるだけの小さな遊園地にいった。
前日も滑り台遊びをしたのだが、ゆっちゅは滑り台遊びに開眼したかのように階段を上がっては三つある台を交互に滑り下り、連続して20回ほど一人で滑って遊んだ。
しかし、その日は一人で滑るのは早々にやめて、ジィも一緒に滑れといってきかなかった。
2、3回いうことをきいて滑ったが「ジィジはもう滑らない」と言うと、今度は滑り台の周囲をぐるぐる走り回ろうと遊びを変えてきた。
「ヨーイ」とかけ声をかけて走る構えをし、ジィも構えるのを待って構えたのを確認すると「ドン」と言って駆けだす。
ときどきジィが走っているかどうか振り返って確認してくる。
走っているとわかると「エンジンジン エンジンジン」と走りに拍車がかかってくる。
途中で立ち止まったゆっちゅが何をするのかと思いきや石を拾ってジィに手渡してくる。
そういえば、前日に石をバトンがわりにして走ることを教えたことを思いだした。
それを思い出したゆっちゅはさっそくじぶんから遊びに取り入れてきたというわけである。
こどもは遊びの天才だ、いや、学びは「まねぶ」すなわち「まねをする」に由来すると言われるが、遊びの本質はまことに学びにあると痛感する。
しかもそれは身体全体をつかった学びである。
身体機能の向上は、言葉の習得に反映するということが、ゆっちゅを見ているとよくわかる。
ゆっちゅの走りは、片脚に完全に体重をのせて力強く蹴りだすことができるようになって自信がついたみたいで、しかもたのしくてしかたがないと言わんばかりの学びの化身のような走りだ。
つぎにゆっちゅの口からどんな言葉が飛び出してくるか楽しみだ。
イルカショーとエンジンジン
ゆっちゅの遊びの中で儀式になっているものがある。
全長1メートル足らずの青いイルカの形をしたビニール製の空気を入れてプールで浮かせて遊ぶ遊具があって、それを使ってやる遊びである。
そのイルカの遊具は一年ほど前にママと叔母と三人で水族館に行った折に買ってもらったものだ。
それを使ってイルカショーを見ていたときにイルカが立てる水しぶきを浴びて大はしゃぎをした体験を再現する遊びを、ゆっちゅはよくやる。
トレーナーをまねてイルカにまたがって尻を2、3度打ち付けてから顔にかかった水しぶきをを手でぬぐって立ち上がると、観客である家族に向かって破顔して歓声に応える。そして傍に用意しておいた20センチ余りの白いイルカのぬいぐるみを踏みつけてチュッチュッと2、3度鳴かせて家族の歓声を浴びながら走りまわるというものである。
一年にわたって事あるごとに家族の前で披露してきた、ゆっちゅにとって言わば儀式のようなものである。
先日大好きなカンナちゃんとジィの家で遊んだ折にも、それをやってウケを取ろうとした。
ところが、カンナちゃんがその青いイルカを気に入って離そうとしない。
ゆっちゅも得意のパーフォーマンスを披露するのに青いイルカが欠かせないので、なんとか取り戻そうとするのだが、「カンナはこっちがいいの、ユウくんは白いのがあるでしょ」とカンナちゃんは取り合ってくれない。
埒が明かないとみたゆっちゅは「エンジンジン」をしはじめた。
これはパパの実家に行った際に覚えた遊びで、物や人の周りを「エンジンジン エンジンジン」と唱えながらリズムカルに走り回るのである。
これが同じくらいの子どもには意外とウケがよく、ゆっちゅがやりだすと呪文のような独特のリズムが生まれ、それに他の子も感化されて後にくっついてはしりまわる。
「エンジンジン」が好きなカンナちゃんはもちろんその誘いにのってきたのだが、青いイルカはしっかりと布団をかけて隠してから、ゆっちゅの後を追いかけた。
足の速いカンナちゃんはすぐにゆっちゅに追いつき煽り立ててくるので、その度にゆっちゅは悲鳴を上げて「抱っこ」と叫んでママの懐に飛び込んでゆく。
ゆっちゅにはパフォーマーのセンスがあるみたいだ。
雨の音がする
その日は雨が降ったり止んだりする天気だった。
フードのついた青いポンチョの雨がっぱを着てゆっちゅは初めてと言っていい雨の中の散歩に出かけた。
家を出たときは一時的に雨は降ってなかったが道路のあちこちに水たまりができていた。
ゆっちゅはうれしそうにそのうちの一つに目をつけると、そうっと近づいて行った。
まるで自分が近づいてゆくのを水たまりに気づかれると水たまりが消え去ってしまうのを恐れてもいるように。
でも本当のところは、水たまりに入ろうとするといつも「入っちゃダメ」と注意されるので、どこまで踏み込んだらその注意の言葉が飛んでくるのかと探っているのだ。
いつもなら注意の言葉が発せられ、それを合図に水を踏みつけて水しぶきを立てようとゆっちゅが目論んでいるのをジィは承知していた。
でも今日はゆっちゅが長ぐつをはいてきているので、ジィは黙認することにした。
ゆっちゅはいつもとは違う長ぐつで水を踏む感触を味わった。
止んでいた雨がふたたび降りだしたのを見てばあばはゆっちゅの傘を取りにアパートに引き返した。
ばあばが戻ってくる間もゆっちゅは次から次へと水たまりを踏みつけて歩いた。
ばあばがお気に入りの新幹線の絵がプリントさせた青い傘を持ってきたので、ゆっちゅは大喜びで傘をさして雨の中を歩いた。
並んで歩いていたばあばが、フードや傘にあたる雨音に気づいたゆっちゅが「音がするねェ たのしぃ たのしぃ」と言うのを聞いた。
雨が降っている間、ゆっちゅは水たまりをふみ鳴らし、傘にあたる雨音を聞いて「音がするねェ たのしぃ たのしぃ」を連発した。
やがて雨が上がって閉じられた傘を引きずりながら家に帰るゆっちゅの後ろ姿は寂しそうであった。
会話をする
ばあばと三人で散歩するようになってから、ゆっちゅはばあばとよくおしゃべりをする。
目に入ってきたものや自分がすることなどや思いついたことなどを、次から次へと矢継ぎ早に言葉を繰り出してくる。
「お花きれいだね」
「ゆっけ走るよ」
因みに、「ゆっけ」とは自分をさすときに使う言葉で、またジィには一緒に走るよという意味で「ヨーイドンするよ」と言って誘いかけてくる。
「川がどんどん流れているね」
河川敷に着いてひとしきりサッカーボールを蹴ったあとボールを抱えて、厭わしく感じられるようになった太陽の光を浴びて階段に座っているばあばの側に行って並んで座りおしゃべりをはじめた。
それをジィは遠くから眺めていた。
ばあばはゆっちゅとジィのサイクリングの準備のためにいつも一足先に家に戻る。
ゆっちゅは河川敷の水道で水遊びに興じたあとまもなく正午を知らせる音楽が流れると、おとなしく抱っこされて家路に着いた。
近ごろでは正午の時報を聞くと、ジィの家に行ってりんごジュースをもらって飲みながらサイクリングに行くのが慣例となった。
コースはほぼ一定している。
最初に目指すのは青い鉄橋だ。
「青い鉄橋だ、電車来るかな?」とジィ。
すると、ゆっちゅも「青い鉄橋、電車来るかなぁ」と復唱する。
電車がやってきたときは、止まって見送る。
チーンチーンとベルを鳴らして「ぴゅーぴゅー」と唱えながら加速して鉄橋の下をくぐり抜ける。
やがてそこに差し掛かるたびと、ゆっちゅは率先して「ぴゅーぴゅー」と言うようになった。
土手道を前方から白い車がこちらに向かって走ってくる。
「前方から白い車がやってきます」とジィが言うと、ゆっちゅも復唱する。
すれ違うときに、車のナンバープレートのひらがなをも読むのも恒例となり、ゆっちゅは面白がってやるようになった。
「後方からカーカーの音が聞こえます」「今追い越して行きました」「シルバーのカーカーです」「シルバーは銀のことだよ」「ゆっちゅの好きな銀ガンガンの銀だよ」
ゆっちゅは耳がいいので、後方から近づくものを音で察知するよう学習させようというジィの魂胆である。
「銀ガンガン」というのは、ゆっちゅの好きな電車にゆっちゅがつけた名前で、銀色を基調としている。
鉄橋には風速計が設置されていることを、サイクリングでそばに来るとゆっちゅが「クルクル」と言うので、それでジィも認識するようになった。
また、別の場所に風向きと強さを測るものがあって、「あれは風速計と言って風の強さと風が吹いてくる方向を測るものなんだ、今はちょっと強めで南東の風だな」と言うと、ゆっちゅは「フウソクケー」と言う。
次の日、同じところへ来て風速計を見て「ナントウのかぜ」と言うので見てみると、確かに昨日とほぼ同じ方角を指していた。
ゆっちゅは、景色ばかりではなく、自分が乗っている自転車にも興味を持っている。
自転車に乗っかってベルやハンドルやブレーキやカゴの名前を、かならず一度は尋ねてくる。
因みにカゴは、飲み終わったりんごジュースの紙パックを投げ入れさせたことで存在を認知したようだ。
子供用の座席にもつかまるところがあって、「これ」と何度も聞いてくるので「それは、ゆっちゅのハンドル」と教えていたら、本体の方のハンドルを握って「ジィジの」と言うようになった。
ブレーキやギアチェンジのレバー、そこから出ているワイヤーを指さしては「これなぁに」、
自分が座っている座席についた安全ベルトのベルトやバックル、自転車にゆっちゅ用の座席を固定するネジなど形状の異なるさまざまな部分を見つけては「これなぁに」と聞いてくるのに対して、「それは、ブレーキのワイヤー。それは、ギアチェンジのレバーのワイヤー。それは、ゆっちゅを護る安全ベルト。それは、ベルトをつけたり外したりするためのバックル。そこはハンドルの一部。そこは座席の一部」ととりあえず、答えてゆくジィ。
アパートに到着すると、「ヘルメットをとって、ベルトを外して」と、いつもジィが唱えながらゆっちゅにしてやっていることを、自分で言ってやってもらったりする。
自転車から降りると、ペダルを踏むまねをして「ジィジやる」と言ってジィに踏ませ後輪が回り始めると、ブレーキを指示してジィにブレーキをかけさせ車輪が止まるのを確かめてから家に入る。
家に入るや否や、振り返りもせずバイバイも言わず去って行くゆっちゅ。
大っきな声だすよ
その日は、雨が降って来そうでなかなか降り出さない寒い日だった。
河川敷グラウンドで、サッカーボールを蹴るのは、ゆっちゅの他には6〜7人の小学生の男女の集団だけだった。
その集団をゆっちゅが意識し始めたのはどの時点であったろうか。
最初はかなり離れたところで露を含んだ短く刈りそろえられた草の上でボールを転がしていた。
関心が他に向かったのか、立ち止まってボールに片足を乗せたままで、そのことを忘れていたようだ。
動こうとしてボールに乗せた足に重心をかけた瞬間、足を取られて地べたに腰から落ち尻もちをついてしまった。
予期せぬ事態に驚いたゆっちゅは激しく泣いて、しばらく泣き止まなかった。
足でも捻ったかとジィは不安にかられた。
抱っこして泣き止むのを待った。
しばらくして落ち着きを見せたゆっちゅだが、ボールを蹴る気はなさそうだったので、そのままジィの家に向かって歩き出した。
しだいにサッカーをする少年少女の一団に近づいていった。
気を取り直したゆっちゅは、抱っこからおりてボールを蹴りはじめた。
どうやら足は何でもなさそうで安心した。
ゆっちゅは、その一団を遠巻きに眺めながら何とはなしにボールをもてあそび行ったり来たりした。
そのうちに突然、ゆっちゅは体内から魂を搾り出すようにして「おおきな声」をあげた。
そして叫び終わってから「大っきな声だすよ」と緊張した声で言った、正しくは「おっきな声だしたよ」と言うべきところだが。
ゆっちゅは、怒って睨みつけるような必死な形相をしていた。
サッカーをしていた子供たちの何人かが、気がついてこっちを振り返った。
そして、ゆっちゅはまたボールを蹴り出した。
ところがまた立ち止まると、大声を張り上げてから再び「大っきな声だすよ」と怒ったような顔をして言った。
その真剣な眼差しはジィを射抜くように鋭かった。
ゆっちゅは自分で意図的に大きな声を出しその声を聴いて驚愕しているふうだった。
その後も同様にして二度「雄叫び」をあげ、自分の意志を確認しているふうだった。