三つ子の魂百まで

「三つ子の魂百まで」という言葉がある。

人間として生きて行くための身体面と知的な面における基礎的な能力は3歳までにつくられる、ということなのだろう。

2歳ころの「イヤイヤ期」を自我形成の初期段階とみれば、パソコンでいうところの基本ソフトが設定されるのが、この時期に当たるということになるのかもしれない。

その人間の生涯にわたる生き方を、ある程度規定するという意味で基本ソフトというわけだ。

生き方と言えば、自分を取り巻く環境に関する知識と、対人間関係の処世術さえ心得ていれば、人は生きながらえることができる。

その生き方において、人それぞれ固有の感じ方なり、考え方なり、行動の仕方がある。

脳の神経細胞の活動から発生した意識が「同じ」ものをつなぐ作用を繰り返すうちに、おそらく我という意識が生まれてきて、その我を中心として脳内にネットワークが形成されるものと思われる。文字通り「我を張る」というわけだ。「がんばる」と評価される場合もあれば、「わがまま」と疎まれる場合もある。後者がイヤイヤ期である。

 

基礎能力を意識的な側面と自然的な側面のバランスと捉えてもよい。

人間の身体は、自然のものである。我々の身体は田畑や海のものからできているが、それは学ばなければ、意識には理解できない。意識にとって身体はよく分からない身近な自然なのだ。

死ぬまで人間の身体の活動は止むことはない。人間の意識はそれもすぐに忘れる。

意識があるのは起きている間だけで眠っている間は現れない。

頭を強打すると、意識は消え、しばらくして戻ってくることもあれば、いつまでたっても戻らないこともある。

そこから、意識は脳の働きと考えて間違いない。その脳は自然の産物である。

わらわれは、その意識があるときしか、ものごとを知ることはできない。

意識がなければ、自分が生きているかどうかさえわからない。

この意識の上に、学問が生まれ、社会生活が成立し、文化が形成され、文明が発展し受け継がれてきたということになる。

これらの人類の遺産は、ひと口で言うと、人間が生きるための知識の集積と言っていいであろう。

平たく言えば、現に今生きていて、これからも生きていく世界、我々の生命を維持するために不可欠な自然環境に関する知識と、社会的動物としての人付き合いの知識といっていい。

その知識を理解し身につけるには、経験と言葉が欠かせない。

経験を通して自然の多様性をどう処理すればいいのかを学び、絶えず変化する自然を言葉でどう固定化すれば実り豊かなものが得られるのか、それを学ばなければならない。

試行錯誤の末にようやく手に入れることができる経験知と、言葉に託された人類の叡智を読み解く力は、3歳までに、脳内の感覚神経と運動神経の活動によって張り巡らされるネットワーク上に、いかに意識が「我を張る」かにかかっていると思われる。