「想い」は行動のネガ

人が社会生活するうえで言葉は欠かせない。

自立することと、孤立することとは違う。

自立するためには、自分の周りの人とうまくやって行くことができなくてはならない。

そのためにはコミュニケーション能力は必要不可欠なものだ。

相手の「想い」を受け止めて、それに応えることができれば、コミュニケーションの基礎能力としては十分だ。

 

大事のは、相手の「想い」を受け止めるというところだ。

厄介なのは、人の「想い」は目に見えない。

それゆえ、目に映る行動や表情から読み取るしかない。「想い」は行動に現れるものだ。

まだ十分に言葉が使えない幼児は、母や身近にいる人たちの行動や表情を感受する能力はかなり高いと考えられる。

そういう人々は自分の欲求に応えてくれる人で、その人たちの動向次第では自分の生存を大きく左右するわけだから。

いや、自他の区別がまだできない以上、そこにある欲求は、本能が求めるものと言うべきであろう。

水分が欲しいと感じた時、身体はすでに飲む態勢に入っている。

その時、目の前に麦茶が無いと、ゆっちゅの場合、脳の回線はショートする。

空腹感や運動欲求のシグナルを感受して、然るべき行動を起こす短絡的な反応が、本能行動であるとすれば、短絡的な反応を抑制し、状況を見て他の人たちの「想い」を考えて、適切な行動をとるのが、大人の対応というものである。

この「想い」が意識に上がってくるようになるまでには、本能による短絡的な行動を幾度となく繰り返し、時には欲求が満たされない経験も必要になってくる。

言葉の習得には、この「想い」がなくてはならない。

言葉は、この「想い」の上に着床するからである。

言葉によって「想い」を固定できれば、その「想い」を意識するようになるだろうし、行動を制御する道も開けよう。

 

 

《ゆっちゅ、昨日・今日》

しばらく耳にすることがなかった宇宙人語、半濁音(ぱ・ぴ・ぷ・ぺ・ぽ・ぴゃ・ぴゅ・ぴぇ・ぴょ)を中心に構成されてる音声、それを宇宙人語と命名したのだが、それを再び使い出だし、しかもまくし立てるように発するようになった。

柱への関心は相変わらず強いようで、町の子育て支援センターへ行っても、柱という柱を手で叩いては「アシ」と確認して回っているようだ。先生が不思議に思って尋ねるので、ママが説明したら、なるほどと感心したと言う。

近所で新築の家を建て始めた。絶好の教材となろう。さんぽコースに組み入れることにした。