学びの道

経験しなければ、物事の道理は分からない。

そして、経験がないところに知識も生まれない。

親は自らの経験に基づいて、子に失敗を回避するように諭す。

しかし、経験に裏打ちされない知識は、行動の指針たり得ない。

親は、子が試行錯誤して経験を知識にしていくのを見守るしかない。

「可愛い子には旅をさせよ」というわけだ。

 

経験は、自然の摂理に出会うことでもある。

病気になるのは、自然に出会うことだと考えることもできる。

人は、病気をすることで、自分の身体に気づき、自分が自然の一部であることを知る。

自分の身体を自然そのものとして見出す。

自分の身体が、まさに自分の思うようにならない経験をするわけだ。

それは、人間の知識である。

 

ヒトの免疫機能は、一度体内に侵入した抗原を記録して、再侵入してきたときは直ちに過去のデータをもとに抗体を作り撃退する。

しかし、それは人体に備わった自然の摂理である。

それに比べ、脳がデータを操るために必要な言葉を習得するまでに重ねられる経験の量たるや、ゆっちゅの執拗な「遊び」にも、納得が行くというものだ。

ゆっちゅの遊びに付き合うには、年寄りのジィはうってつけのだろう。

ゆっちゅは、容易に言葉を使わない。

同じことを幾度となく行い、倦むことを知らない。

ゆっちゅにとっては、換気扇のヒモのスイッチを繰り返し引っ張る行為や、回転式開閉窓ガラスの取っ手を何度も開け閉めする行為や、電気スタンドのスイッチを押して点けたり消したりする行為は、同じことではないのかもしれない。

ゆっちゅは、因果律の研究をしているに違いない。

まさに実験をしているのだと思う。

 

それにつけても改めて、言葉の習得には、習慣がものをいうことを思い知った。

ゆっちゅの脳には、すでに数多くの言葉が内蔵されているに違いない。

どこでどんな言葉を取り込んで、すでに脳内に定着している言葉と、どのように連携が取られているのやら、シワが薄くなり始めたジィの脳には計り知れない。

いつ、ゆっちゅの遊び相手のお役御免となるのかわからないが、まだまだ気が遠くなりそうなくらい先のようにも思われる。

のんびり気長に付き合っていこうと思う。

 

愛情を持って見守ってくれる人がそばにいて、程よくひとりで乗り越えられる障害というものは、人を成長させるものだ。

せめてそれくらいまでは、ゆっちゅの遊び相手を努めたいと思う。

これは、学習が成り立つ上での基本条件と言えるかもしれない。

しかし、肝心なことは、答えが用意されていないということである。

答えというものは、自分で出すものであることを、ゆっちゅには学んでほしい。

誰か他人、親とか先生とかが持っているものだとは思って欲しくない。

他人から学ぶべきは、問いかけ方であり、答えの出し方であって、答えは自然の中にあるものであり、問いかける者一人ひとりにとって異なるものであることに気づいてほしい。

答えを誰かが持っていて、その答えには価値が有ると信じてしまうとその人に隷従してしまうことになるから。

過度に正答を求めるあまり、人におもねったりするから。

忖度や思いやりを発揮するあまり、見返りを期待してしまうから。

自分を見失わないように、勉強もほどほどにした方が良い。しかし、好奇心だけは失わないでほしい。

実験・検証を怠らず、間違いは素直に認め、その原因を追及し、原因と結果の関係を明らかにすれば、それが知識となる。

そして、それは一人でしか辿れない道であることもわかってほしい。