近代的自我

近代的自我が、近代的工業化社会と一心同体とものであるというようなことを論じている本を読んだ。

言いかえれば、今日の高度に科学技術が発達した社会で生きてゆくには、それにふさわしい自分の意識を持つ人でなくてはならない、ということらしい。

早い話が、自我が強い者ほど、今の世界では有利であるということのようだ。

しかし、同じ本で、近代以前の社会や近代化から取り残された地域で暮らす人々は、「我々よりもはるかに柔らかな自我構造を持っていて、より共同体的でより多様な生き方をしており、不安や狂気は我々よりはるかに少なく、主体/客体の区別もずっと曖昧である。」とも言っており、これは一考に値する。

 

今、イヤイヤ期にさしかかったゆっちゅの自我は、たおやかに芽を出したばかりだ。

そのゆっちゅが生きて行く日本という国は、科学技術にかなり頼り過ぎている感があるように思う。

日本は、火山と湿潤な気候が作り出す自然環境に順応しながら固有の文化を築いてきたわけだが、西欧の近代科学文明の洗礼を受けてから以降は、科学技術を使って自然を制圧する方向へと大きく舵を切った。

高度経済成長を支えた数々の巨大なダム建設と、さらなる繁栄を目論んで後先考えずに経済的発展ばかりを追い求めたことによって、欲の塊が癌細胞と化して増殖し、国内のそこここに埋め込んだ回収不可能な地雷のような原子力発電所は、資本主義と科学技術への過信と自然への不敬が招いた証しである。

こうした近代的工業化社会を産み育ててきた人間の精神の核になってきたものが、近代的自我なのである。その近代的自我は、今や硬直化しはじめ、多くの現代人の心を蝕みはじめている。

近代科学の精神は、自らの自我意識と自らの身体を分離し、主観と対象を峻別し、自然の法則を暴き出し自然を支配しようという企てを持ったものであった。

その科学的精神が扉を開けた近代化の幕開けにに現れた前近代的な心をもった男を描いた物語が、『ドン・キホーテ』である。

狂気じみたドン・キホーテの言動は、今日の精神医学でいう「類似に錯乱した」パラノイア患者にそっくりだという。

その後、近代科学的精神と工業化社会が隆盛し、それにともなって自我力の強さが一層求められるようになると、人間の精神も、自らの身体と、そして身体がその一部でもある自然とのバランスが崩れ出し、サド・マゾヒズムといった倒錯した性観念が人間の心に蔓延し始めるようになっていった。

そして、資本主義と工業化社会に順応して楽に生きて行くために、自我力の強化を図るさまざまな文化的な装置が整備され、先進国の多くの人々が集団的神経症を患って行く。

行き場を失った自我は、麻薬やアルコールに逃げ場を求め、ある者は分裂病を引き起こし、またある者は自分の心に閉じこもってしまう。

今や、あまりにも幼い段階から強い自我を育てようと抑圧的な教育をするあまり、発達障害なるものを誘発してしまっているのではないと、危惧される。

 

さて、芽を出したばかりのゆっちゅの自我をどのように、どの方向へ導くか、それが問題だ。

自我の強化へ向けてか、それとも前近代へ向けてか、はたまた、第三の道があるのか。

思案のしどころである。