「もう一回」

文化は言語と手を取りあって人間の意識を自然状態から遊離させてゆく。

 

意識は言語によって反復学習をくりかえす。

眠りから覚めたゆっちゅが言葉をしゃべりだすと、表情やしぐさに生気がみなぎり行動が快活になってゆくのが確認できる。

また、特定の言葉がそれに対応する行動をひき起こすのもよく目にする。

たとえば「エンジン スタート」と言って、高速で足踏みをしながら身体にひねりをくわえて右に左にと踏み出しては戻るという運動を繰りかえす遊びを近ごろ好んでやる。

この遊びにつながると思われる行動がある。

ひとつは後ろ向きで歩く行動である。

自動車のバックするのをマネしているようだ。

「ピッピッピッ」と大型車がバックするさいにだす発信音を口ずさみながらやる。

それと前後して「カニ走り」と言いながら身体を横向きにして脚を交差させて走ったり、蛇行して走ったりするようにもなった。

それらを複合的に組み合わせて前後左右に圧縮した、ちょうどサッカーの三浦知良選手がやっていた「カズダンス」のような足さばきをするのである。

「エンジンスタート」を合言葉にゆっちゅはクルマになりきるのだ。

 

言葉が習得されるには、同じことがらが繰り返されなければならない。

思い起こせば、ゆっちゅにとって走るという行為をさす言葉は「ヨーイドン」であった。

はじめは「いっしょに走ろう」というようなニュアンスでつかっていたものが、「じぶんが走るよ」というふうにつかうようになり、いつのまにかスローモーションで走るときに「スロー」という言葉もくわわり、やがて循環して走りまわる「エンジンジン」となり、右まわり左まわりが分かるようになると、いまではその場を動かず全方位的にステップを踏む「エンジンスタート」のダンスへと進化のプロセスをたどることができる。

こうしてみると、ゆっちゅの場合、言葉と意識は運動経験と密接に関係しているのがわかる。

運動神経の回線の複合が進み、身体も複雑な動きができるようになるにつれてゆっちゅの感受性は高まってゆくように見える。

トミカのミニカーが好きなゆっちゅは、散歩のときに目にするクルマのエンブレムに関心をもちはじめた。

また、ユーチューブから得る知識や説明する言葉をまたたく間に吸収しているようだ。

相手に行動をソフトに強要する「・・してごらん」という言葉をゆっちゅは「・・してごじゃん」と言って相手もつい笑いに誘いこまれてしまうのだが、相手が思う通りにやらないとゆっちゅはかんしゃくをおこす。

「・・してみよう」「・・行ってみよう」などという言葉も多用するようになった。

しかし、これらはジィやバァにじぶんの思うように動いて欲しいという意味でつかう。

身体的な距離感もゆっちゅの方から絡んでくるような間合いをとってくるようになってきた。

そしてこうした傾向は「カーズ」という2時間弱のアニメーションを集中して見るようになってから強まってきたようだ。

これは登場人物のすべてがクルマというクルマ社会の設定になっている物語である。

主人公は自己中心的で向こう見ずなレーシングカーでさまざまな経験を経て、友情や師への尊敬や周囲の人々への敬意の念にめざめて一人前になってゆく自己成長小説仕立てになっている。

主人公のライトニング・マックィーンの感情が高ぶったりいら立ったり恐れたり落ちこんだりするのに、見始めのころはそれに耐えられなかったのか、しばらくは見るのを忌避していた。ところが近ごろは買ってもらったキャラクターのミニカーをつかって物語を反すうしているのか、キャラクターに顔を近づけて「カーズ」の世界に入りこんでゆくようになった。

 

ゆっちゅは今でこそ「もう一回」となんども繰り返すことを求めることができるようになったが、言葉を習得する以前は同じ事象をしめす言葉をほとんど反応らしい反応をしないゆっちゅに向かってなんども話しかけたものであった。

しかし、やみくもに言葉を言ってもだめで、ゆっちゅが関心を示すものに言葉をあたえなければならないと気づいてからは、ゆっちゅの感嘆の声やゆび指し行為やものを見るときの目の輝きを手がかりにゆっちゅの興味をひくものの名をささやき続けた。

やがてその言葉を聞き分けるようになると、言葉を耳にしただけで、じぶんの見たいもの行きたいところを意識するようになっていった。

そして、関心を抱くと「もう一回 もう一回」と気がすむまで「もう一回」という言葉をつかうことを覚え、近ごろでは公園で遊んでいるときに「お家に帰らない」と「・・しない」という否定的な言葉でじぶんの意志の表示を明確にするようにもなってきた。

自己性の夜明け

神経細胞をかけめぐる信号はデジタル性でリズム的性質をもち、外界の昼夜の日リズムや寒暖などの年リズムをはじめとして、さまざまなリズムが共振する場面に触発されて意識と言語は手を携えて発生するとかんがえられる。

「三つ子の魂」に言語の形成が大きな役割をもつことは当然かんがえられるべきである。

外界からの刺激が諸感覚器官を通じて脳へと送られてくる信号、そして身体内部からの刺激が神経細胞を通して求心的に脳へと送られてくる信号と、反対に脳から運動神経を介して身体各所に遠心的に送られる信号が、相互に大脳皮質のなかで行き交いながら共鳴し共振しあって、ある種のリズム的な場面において、まずは音韻や韻律として音声言語が定着すると意識が生まれ、やがて手を携えて個々の特徴をもって自己性の回路をつくりあげてゆく。

自己性の回路は、一人ひとりが何をどのように意識し生涯にわたって個体として成長し完成するプロセスを起動する基本的なパターンのことである。

 

 

意識の王国

ヒトを細胞という視点からみると、ヒトは自然な存在である。

しかし、人の意識が形成されるやいなや人の自然状態からの離脱がはじまる。

 

オシッコやウンチは自然の摂理であり、おなかが空けば不機嫌になるし、眠くなったら意識は散漫になる。

細胞の活動は生理現象であり、そのすべては自然現象である。

そこに大人と幼児に区別はない。

違いがあるようにみえるのは、意識の介入の程度が異なり、時と場所と状況に応じた生活様式をとれるかどうかの違いにすぎない。

大人になればトイレで用を足せるし、腹が空けばコンビニへいってパンを買って食べることもできる、そして居眠りして仕事に支障をきたさないように規則正しい生活習慣をこころがけるようにもなる。

大人は自分の生理現象をうまく手なずけることができているからいちいち意識しないだけのことで、けっしてみずからの生命活動を自由自在にコントロールしているというわけではないのである。

 

なにはともあれ、意識の王国を形成することによって人は自然状態から遊離するのだが、その離脱の仕方は人それぞれで、そこでその人の生涯にわたる生き方のスタイルの元型が形づくられるとかんがえられる。

それが、いわゆる「三つ子の魂」である。

自然状態からの離脱の仕方が人の個性と関係するというなら、人間特有の巨大化した大脳皮質の機能である意識作用と言語の役割をみてゆくのが得策であろう。

 

 

三角形が北を指す

ゆっちゅは風に反応する。

「あっ風がふいてきたね」

風速計をみて「南南東の風だね」などとジィが言った言葉をまねて言ったりする。

そこで「東西南北」の方角を教えようと思いたってコンパスをもちだして見せた。

小さなもので北を示す文字のうえに三角形がついていて文字盤ごと動いて北を示すつくりになっている。

ゆっちゅは三角のかたちはわかるので「三角形が指すのが北だよ」と言って二階にあがる階段を指さす。

「そして逆のこっちが南だ」と言ってピアノがある方を指さす。

玄関の方を指さして「あっちが東だ」そして、ばあばが座っている方を指さして「あっちが西だ」

するとすかさずゆっちゅはガラス戸越しに見える庭を指して「あっちは?」ときいてくる。

「こっちが南で、ばあばがいる方が西だから南西だ」

 

散歩に行くときももっていって、いつもの遊園地で滑り台のしたでコンパスをだして「三角が北を指している。あっちが北だ」と言うと、ゆっちゅがつかさず「こっちは?」ときいてくる。

「そっちは南だ。それでこっちが東で、こっちが西だ」とジィが指さす。

するとゆっちゅは「こっちは?」と入り口を指さす。

「南西だな」とジィ。

 

先日、本屋に立ち寄った折に昔ながらの針が北を指して文字盤をそれに合わせる式のコンパスを見つけて買ってきて見せたところ、ゆっちゅはすぐ興味を示した。

今では二つのコンパスを必ず持って散歩に行く。

ゆっちゅはコンパスを「三角の」とよんで、コンパスという言葉はつかわない。

ゆっちゅの求めに応じてその場で東西南北を確認する。

はたしてゆっちゅは方角をどのように利用するのであろう。

 

「右まわり左まわり」

その場に立って天井を見あげてぐるぐる回る遊びをゆっちゅは以前からやってはいたのだったが、右回りと左回りの区別がわかるようになった途端に「右まわり 左まわり」と唱えながら右に回ったり左に回ったりすることが一段と楽しくなったかのように夢中になった。

それまでの回転遊びが身体からの内的な触発によるものとするなら、言葉をともなった回転運動は脳の回路を経てじぶんの身体をコントロールをしはじめたことを意味している。

ところで、じつはその直前に「ジィジの右手はどっち」と言って、ゆっちゅの目の前に両の手を差し出したところ、ゆっちゅはじぶんの右手でジィの左手をつかんだので「それはジィジの左手だよ」と言って右手を差し出し「こっちがジィジの右手」と言ったところだったのだ。

そうしたらゆっちゅはくるくると走りまわりだした。

「それは左まわりだ」と言ってやった。

そうしたらゆっちゅは向きを変えて回りだしたので「それは右まわりだ」と言うと、4、5回るたびにゆっちゅは向きを変えて「右まわり」「左まわり」と言いながらしばらく遊びに興じていた。

 

まだ、ゆっちゅにとっては他者の左右の理解はハードルが高いようだ。

右と左

「右」と「左」という言葉をつかいはじめたゆっちゅは、身体をひねる運動をするようになった。

蛇行して走ったり、上半身を90度ひねったままで走ったり、またちゃぶ台の上から跳びおり身体を90度ほど旋回して着地したりする。

 

すでにゆっちゅはじぶんの左右の手を区別することはできている。

手を洗ってやるときに「左の手ってを出して今度は右の手って」と言うとちゃんと出してくる。

足の方はサッカーボールを蹴るときに左でのキックは得意なのだが「右でも蹴ってごらん」と言うと右で蹴る。

うまくヒットすると「遠くまで行ったね」と言ってうれしそうに笑いかけてくる。

 

自転車に乗っているときに、「つぎ、左にまがって鉄橋をくぐりま〜す」「右にカーブしま〜す」「前方からくるまが来ました。左にまがりました」などとアナウンスしながら走っている。

また、ゆっちゅのすきな「じゃり線橋」から車道にでる足下に「みぎをみて ひだりをみて」と書かれている標識がある。

それを読みあげてからジィは右を見て左を見て「カーカー来てないね オッケー」と言って車道に出るようにしていることなども、文字に関心をもっているゆっちゅには「右と左」いう言葉を使うきっかけを与えているのかもしれない。

 

さて、今度はジィジの手や足の左右の区別ができるだろうか試してみよう。

すわるとおりる

ゆっちゅは「すわる」という言葉を「椅子に座っていて、こっちに来ないで」という意味でつかう。

また、「あっち行くよ」は「あっちへ行って、こっちに来ないで」という意味でつかっている。

これらの言葉は、ゆっちゅが自分のテリトリーを意識していることをものがたっている。

「おりる」という言葉を「こっちにきて座れ」という意味でつかっていたので、そういうときは「すわる」と言うんだよと教えると、次のときにちゃんと「すわる」と言うようになっていた。

 

カンナちゃんと遊ぶようになってから、ゆっちゅは二人でいっしょに遊ぶことをおぼえたようだ。

それにともなってか、相手に指示をだす言葉をつかうようになってきた。

相手をじぶんの思うように動かすことが面白いことに気づいたものと見えて、散歩の際にも、ジィに注文をだしてくるようになった。

 

その日は、いつもゆく遊具は滑り台が一つあるだけの小さな遊園地にいった。

前日も滑り台遊びをしたのだが、ゆっちゅは滑り台遊びに開眼したかのように階段を上がっては三つある台を交互に滑り下り、連続して20回ほど一人で滑って遊んだ。

しかし、その日は一人で滑るのは早々にやめて、ジィも一緒に滑れといってきかなかった。

2、3回いうことをきいて滑ったが「ジィジはもう滑らない」と言うと、今度は滑り台の周囲をぐるぐる走り回ろうと遊びを変えてきた。

「ヨーイ」とかけ声をかけて走る構えをし、ジィも構えるのを待って構えたのを確認すると「ドン」と言って駆けだす。

ときどきジィが走っているかどうか振り返って確認してくる。

走っているとわかると「エンジンジン エンジンジン」と走りに拍車がかかってくる。

途中で立ち止まったゆっちゅが何をするのかと思いきや石を拾ってジィに手渡してくる。

そういえば、前日に石をバトンがわりにして走ることを教えたことを思いだした。

それを思い出したゆっちゅはさっそくじぶんから遊びに取り入れてきたというわけである。

こどもは遊びの天才だ、いや、学びは「まねぶ」すなわち「まねをする」に由来すると言われるが、遊びの本質はまことに学びにあると痛感する。

しかもそれは身体全体をつかった学びである。

身体機能の向上は、言葉の習得に反映するということが、ゆっちゅを見ているとよくわかる。

ゆっちゅの走りは、片脚に完全に体重をのせて力強く蹴りだすことができるようになって自信がついたみたいで、しかもたのしくてしかたがないと言わんばかりの学びの化身のような走りだ。

つぎにゆっちゅの口からどんな言葉が飛び出してくるか楽しみだ。