「有る」と「無い」

二歳頃に見られる、いわゆるイヤイヤ期は、不安定な自我を確固たるものにしようとする努力に他ならない。」と、「自我と意識と言葉」(5/26)で書いた。


昨日、送り届ける道すがら、ゆっちゅのママと話した。

「このところ、ゆっちゅの『これ何?』が凄いね、次は『どうして?』の質問攻めが来るのか」と、ジィが言うと、

ママが言うには、「次は、『○○はどこ?』よ」。

それを聞いて「なるほど」とジィは思った。


「これ何?」から「○○はどこ?」への移行期に、「イヤイヤ期」があると考えるべきなのだ。

なぜなら、自我というものは、有って無いようなもので、幾何学における点のようなものと考えられるからだ。

 

幾何学においては、点は面積を持たない。直線も面積を持たない。

因みに直線の定義は、「二点間を結ぶ最短距離」である。

それでは目に見えないではないか。

そうなのだ。面積を持ってしまえば、点ではなく、円であり、直線ではなく、長方形になってしまう。

鉛筆で描いた点や線は、厳密には、円のようなものであり、長方形もどきと言うしかない。

それでは、点も直線も存在しないのかと言えば、感覚的には捉えられないが、考えることはできる。

そういう意味では、点や線は数学でいうゼロと似ている。

「0」は、数としては「無いこと」を意味するが、無いという状態、空であるという場所を示すことができる。点も「0」も位置としては在る。

ということは、点もゼロも存在はしている。どこに在るのかと言えば、それは脳の中に、と言うしかあるまい。そういうものを、数学的概念と呼ぶ。

 

イヤイヤ期の子供が、「○○はどこ?」と尋ねることができるには、ママやパパが「居ない」ということが分かっていなければならない。

ママは、今ここには居ないが、他の別の場所にいるに違いないと思わなければならない。

「○○はどこ?」という質問を通して子供は「有ること・無いこと」がどういうことなのかを学んでいると、考えられる。

 

「有ること・無いこと」は、どちらか一方だけで成り立つことができない。

以前から在るものは、在るのが当たり前になっているから、改めて有ると思うことはない。そういうものは、無くなってはじめて、そういうものが在ったことに気づく。一方、「無いもの」は、はじめから無いのだから認識しようがない。「無いもの」が無いことを証明することはできない。

 

子供が「有る・無い」の違いが分かるようになるのには、実は「同じ」が理解できなければならない。

そして、その「同じ」ということを理解する作業が、「これ何?」であると考えられる。

 

さて、自我というものは、有って無いようなものである、ということ話にもどる。

「同じ」が成り立つためには、言葉がなくてはならない。

言葉にした物事は、変化しないものとする。変化しないという約束事のうえに言葉は成立していると言っていい。

他方、現実の世界は、絶えず刻々と変化して行く。諸行は無常で、万物は流転し、行く川の流れは、絶えずしてしかも元の水にあらず、である。

自我は、絶えざる変化にさらされながら、常に「同じ」であろうとするところに生じる。すなわち、有って無いようなもの、しかし、自分が自分であるための基点、自分がどこかへ向かう起点である。

流れを止め、立ち止まったものは、新たに旅立たなければならない、そのために必要な道標、道しるべが、自我という「点」なのである。