性格

自我とは、他者の立場からは、個性とかキャラクターとして捉えられる、その人固有の性格のことである。

真面目でおとなしく責任感が強い人こそが、企業が求め、公務員としてもふさわしい人物像の典型であった、いや、今もそうかもしれない。

それは、日本人の理想的人間像なのだろうか。

しかし、近頃では責任感が強いというのは、責任を取ることとは違うことらしい。

政治家や、大企業の幹部役員の問題発生時の去就や弁明を見てわかるように、責任逃れの天才ばかりだ。

責任感が強いというのは、責任が発生する状況に敏感で、責任回避するのに巧みである人のことを指すようだ。

真面目でおとなしいという性格も、どんなに理不尽な、言い換えれば、公正さや正義に反する仕事でも、命じられれば一所懸命上司のために命を懸けて勤め、決して反抗などしない、使い勝手の良い人間のことを指しているとしか思えない。

 

近頃のニュース報道で、改めて、忖度することが、日本社会における権力争いの世界で出世していくための欠かせない処世術であることを教えてくれた。

日本人の美徳である、人を思いやる優しさは、損得が絡むと、忖度というものに変貌する。

親兄弟のためにというのも、ひと昔前なら「家」のためであり、組織の仲間のためというのも、ひと昔前なら「お家」のためというのと同じだ。

それもやはり「私事」を優先したことになるのであり、公共の利益に反すれば、反社会的行為と言わざるを得ない。

平和的と言えば言えないこともないが、権力の座に坐っている者に都合のいいように、人が忖度してしまうような、日本社会が共有している暗黙のルールは、日本に特有の「自分を押し殺し、世間体を優先する」社会システムに由来するもので、陰湿で、自由を抑圧し、人権を無視している側面を持っており、民主主義社会には相応しいものとは言えないように思う。

忖度に呼応するように「おもてなしの精神」ということも声高に言われるようになった。

なにやら、無報酬で客の気にいるように振る舞えと言わんばかりだ。

ブラックな労働を、日本の伝統的な美徳で包み隠そうとしているような騒ぎ立てぶりだ。

何はともあれ、そんな日本人を、外国人は皆親切で優しいと褒める反面、個性が無いので、みんな同じに見えるとも言う者もいる。

 

さて、ゆっちゅの性格についてだが、注目されるのは、気分の切り替えの速さと、おしゃべりだ。

そのおしゃべりだが、よくしゃべる。

ゆっちゅが、かつて盛んに使っていた「アシ」は、影を潜め、今では「テッキョ、テッキョー」に取って代わられた。

格子状に組み立てられている構造物は、すべて「テッキョ」と呼ばれる。

暗渠の所々にはめ込まれている鉄の格子も、工場の梁の鉄格子も、ゆっちゅにとっては「テッキョ」となる。

鉄橋が大好きなゆっちゅには、街中のいろいろな構造物に、鉄橋と共通する何かが見えるようだ。

もちろん「テッキョ」以外にも「電柱、電線、鉄塔、線路、高い」など、言葉も豊富に使えるようになってきた。

それらの言葉に混じって、まだ何のことを言っているのか分からない、いわゆる「ゆっちゅ語」が音色豊かにまくし立てられるのだ。

 

ゆっちゅの、気分の切り替えの速さは、注目に値するようだ。

ゆっちゅの泣き方は、涙をともなわない嘘泣きが多い、と評する向きもある。

転んで泣いていても、自分の思うようにならなくて泣く、いわゆるイヤイヤ期特有のあばれ泣きをしていても、話題の振りようによっては、即座に機嫌を直す。

大人たちの会話も、かなり聞き分けている様で、自分を悪くいっているとわかると、泣いて暴れることもある。

言葉に対する反応の良さと、気分の切り替えの速さには、関連するものがあるように思われる。

近頃は、ママの顔色を伺うそぶりも見られる。

言葉の理解が進むにしたがって、文脈をよむ能力も発達してくるのであろう。

文脈と言っても、もちろん文章読解のそれではない。

しかし、行く行くは、書かれた文言の解読に不可欠な文脈、すなわちコンテクストを捉える力へと結びついていることは間違いない。

コミュニケーションが存在するところには、必ずコンテクスト、すなわち文脈が発生する。

メッセージは、コンテクストとの関係で成立するものである。

コンテクストという背景がなければ、言葉は単なる図柄に過ぎず、メッセージは宙に浮いてしまう。

例えば、目の前にあるボールは手にとっていいものなのか、あるいは、蹴らなければならないものなのか。

もしかして、触れてはならないものなのかもしれない。

しかし、ジィが蹴ってよこしたら、どうすれば良いかは明らかだ。

最初は、感覚を動員して経験を繰り返しながら、コンテクストの学習を重ね、相手からのメッセージを読み解いてゆく。

やがて、それに言葉が加わってくる。

言葉は、状況を把握し、コンテクストを判断する上で、大きな役割をもつようになる。

ゆっちゅは今、わずかに手にした言葉を頼りに、自分の置かれたコンテクストを推測し、それに合わせて動くことの学習の最中なのだ。

そして正に、そのコンテクストの括り方によって形成されてゆくのが、ゆっちゅの性格、すなわち自我なのだ。