動くもの

ゆっちゅは動くものが好きだ。

風ぐるま、風にはためくのぼり旗、電車、家にいる猫、さんぽのとき見かける犬、公園で触れるやぎ、風に舞う枯れ葉、てんとう虫、鳥、蝶、蟻、ダンゴムシ

 

視覚的に世界を分節するには、動きが大きな役割を担う。

動くものは、個体として捉えることができる。

視覚世界は、動くものが個として前景に立ち、残りが背景となって形づくられる。

動くものは、聴覚言語に対応することで個体として同定される。

 

言葉という人間にとっての最大の武器を、まだ手にしていなかったとき、ゆっちゅに世界はどのようにその姿を現していたのだろうか。

一方的に押し寄せてくる感覚刺激に晒されて、何をどう見たら良いか、どの音をどう聞けば良いのか分からないというような状態であろう。

勿論、目的意識は後から形成されるのだろうから、せいぜい遺伝的に受け継いだ本能によって反応するのが関の山と言ったところだろう。

ゆっちゅにとって必要な音、ママの声とか足音など本能的に生存にかかわる重要な音は、聴き分けることができたはずだ。

 

朝早く、まだ人が寝静まっている頃の、川のせせらぎの音や鳥のさえずる声は驚くほどに大きい。

そこに車が通りかかってエンジンの音が耳に入ってくると、それが爆発音であるのがよくわかる。

ところが近くでヒソヒソ話をされたりすると、

エンジン音は背景に退き、ヒソヒソ話が前景に迫り出してくる。

 

そうかといって、音というものは、必要ないからといって耳を閉じて聞かないというわけにはいかない。

どうしても聞きたくなければ、意識を失うしかない。

ヒトは音に対しては受け身だ。

音は時間と共にある。音と時間を切り離すことはできない。

 

そんな音の世界を分節する上で、聴覚言語は重要な役割を果たす。

耳から入る言葉は、同じ言葉を何度でも繰り返し聞くことができる。

厳密には同じ音とは言えないが、音声言語としては、同じものとして再生される。

すなわち、何かある特定の同じものを指し示すものとして、その音声は同じものと捉えられる。

言葉には、世界を分節する力がある。