「ああすれば、こうなる」

苦労してようやく言葉の「同一性」を理解した幼児を、今度は意識の「同一化する」という機能の陥穽に陥る危険性が待ち構えている。

 

ノウハウ本というものがある。ノウハウとは手続き的知識という意味で、要は「ああすれば、こうなる」式に作られたものの使い方を説明したもの、すなわち取扱説明書が解説する方法のことである。

約していうところのトリセツは、すでに人の手で作られたものをどのように扱えば良いのかを教えてくれるものだ。

人はそれを頼りに手順通り行動する。

しかし、トリセツが役に立つのは、人が作った人工的なものか、人間の脳が解読した自然現象の一部に限られる。

われわれはすでに、人間が作った多くのものに囲まれて暮らしている。

そこでは自然のものは遠ざけられるか、ベールをかけられている。

「ああすれば、こうなる」ことが成り立つということは、ある手続きを踏めば、必ず同じ結果が期待できるということである。

この再現可能性こそは、科学技術の根幹の原理である。

その技術を利用して、人類は人工的で利便性の高い都市文明を築き上げてきた。

利便性が高いということは、「ああすれば、こうなる」ことが生活のあらゆる面を支配しており、自分の思う通りに何でもできると思わせてくれるということでもある。

思い通りに行かないと、道具や機械に八つ当たりすることがあるが、それは期待通りの結果が得られないことに腹が立つからである。

腹が立つのは「同じ」ことが起こることが当然だと考えているからで、それこそが意識の働きによるものだからである。

そしてそこに、意識の落とし穴がある。

「ああすれば、こうなる」と「こうなるには、ああすればいい」は、意識には同じことなのだ。

物事を「同じ」ものとして結びつける意識の働きによって、人間の生き方が実現可能なもの、実現に向けて手順が明確なものにだけ限定されてしまうのだ。

「こうしたい場合は、ああすればいい」と考えてしまうのだ。

「ああしたい、こうなりたい」そのためには「ああすればいい」という風に、マニュアル通りにやれば、何でもできると思い込んでしまうのだ。

「なれるものになる」「できることだけやる」それでいい。まずまずの暮らしができれば、多くは望まない。

「なれない」と人を恨み、「できない」と人のせいにする、自分は言われた通りにやったんだから、自分は悪くない。

意識のドツボにドップリとハマった生き方だ。

人と「同じ」でいいと考える生き方は、自分を見失う。

見失った自我は迷走し、制御しずらい。

自我が制御不能に陥らないように、意識を身体に留めておくことが肝要だ。

身体こそが、浮遊する意識を現実につなぎとめることのできる「縁(よすが)」である。

一流のサッカー選手のプレーを批評をする前に、自分でリフティングをしてみれば分かることだ。

現実とは何かを、身体が教えてくれる。

       

     《ゆっちゅ、昨日・今日》

ゆっちゅは行動で「想い」を伝えようとする。

ジィのゆびを握ってきたら、ガラス戸に字を書いて欲しいか、自分が触っているものに同様に触って言葉の確認をしたいか、特に電信柱でそれを求める、目の前にあるものに触りたいか、状況にもよるが、そうした「想い」のサインだ。

小雨の中、ポンチョを着て朝のさんぽ。

手すりに頼らない階段の上り下り。意欲的に三往復、尻もちをつきながらもがんばった。

近ごろ、抱っこされながら、ジィの胸の辺りを手で叩いて「アシ、アシ」と言うようになっていたが、それに伴ってさらに高いところのものを取ろうとしたり、高いところに上がろうと、ジィの腹や胸に足をかけ登り揚がろとする行為を見せる。

ゆっちゅの使う「アシ」という言葉には、単なる概念だけの意味ではなく、生命力がほとばしるのが感じられる。