鉄橋愛

愛は、主体と客体との癒合的関係であるはずが、なにごとも対象化し実験にかけ原理をつかみ、機械論的世界観で搦め捕ろうとする主体の異常な情熱は、他者に対する愛情を変質させる。

他方、主体と客体を峻別するがゆえに自然から疎外されてしまい、孤立した主体は、干からびた抽象的な観念の虜となり、やがて生気を失ってしまう。

貧血状態の主体は、愛の力で活力を取り戻そうとするが、自分自身さえも対象的に支配する愛し方しかできないがゆえに、自ら倒錯的に対象へと身を落としてしまう。

 

車のナンバープレートのひらがなを読むようになってから、ゆっちゅは五十音図のほどんどを読むようになった。

街中のポスターや標語の看板、テレビ画面のひらがなも拾い読みする。

ゆっちゅの車好きが功を奏したと言ってもいいかもしれない。

もうひとつ、電車好きが高じて、今ゆっちゅは鉄橋にハマっている。

鉄橋の下から線路を透かして空を見上げる。

晴天の時などは「あお」と叫んで、青空を発見する。

また、停車している電車の車輪が、レールに乗っかっているのを、鉄橋の下から見るのは迫力があり、感動的だ。

だからか、ゆっちゅは「しゃりん」という言葉もすぐに覚えた。

プラレールという鉄道玩具があり、鉄橋を作ってやると、間近に寝そべって「てっきょ」と何度もつぶやき、うっとりとした眼差しで下から見上げる。

そんなゆっちゅの鉄橋愛のせいで、近頃は実際の鉄橋を見に行くと、家に連れ戻ることがなかなか難儀である。

 

「好きこそものの上手なれ」ということわざも、好きなことには、

人は熱心に取り組むもので、主体と客体との未分化な状態、すなわち意識して手にすることのできない、感情と感覚だけでとらえた世界、合理的な判断力が機能しない、感覚と感情がイニシアチブを取る世界、そんな世界に遊ぶことによって身につく、ものとの関係を言うのであろう。

好きで好きでたまらない、と思ってやっているうちに、いつの間にか上達してしまったという世界は、打算と損得が働くと、たちまち魔法がとけて、かぼちゃの馬車に戻ってしまうような世界なのである。

欲得でしか世界を考えられなくなって資本主義の奴隷となり下がってしまった大人たちにはもはや立ち入ることができない、天衣無縫の極み、無為自然の境地の話なのだ。