「道具的報酬」の学習コンテクスト〜手
道具は手の延長である。
TPO(時と場所と場合)をわきまえるという言葉がある。
それは、コンテクストを理解することと言い換えてもいい。
ここで言う「場所」は、結婚式とか卒業式といった「特別な行事、儀式」と考えよう。
ところで、ゆっちゅが道具を理解するのは、自分の手を介してであろう。
何かをしようとするときに、はじめて道具の役割が理解される。
道具の意義は、目的との関係において了解される。
そして、目的は行為・行動と相補的な関係にある。
目的のない行動はあり得ないし、行為の伴わない目的は存在し得ない。
したがって、何かをしようとするとき、すなわち目的を持って行動するとき、そこには道具的
存在が姿を現わすことになる。
ゆっちゅが、川の流れに向かって石を投げようとするとき、ゆっちゅの手は道具になる。
河原に行って、ジィに手渡される石を川面に投げ入れる。
水面に一瞬穴が空き、ぽちゃんと音を立てて、穴は閉じ波紋が広がる。
近くにある鉄橋を電車が渡るときは、ゆっちゅの意識はそれにくぎ付けになる。
電車が過ぎ去ると石投げは再開される。
回数を重ねるたびに、石は少しずつ遠くまで飛ぶようになった。
自信がついたのか、自ら大きめの石を拾って投げるようになる。
遠くまで石が飛んだ時や水音が大きく鳴った時は、ジィの顔を見上げて褒めて欲しそうに笑いかけてくる。
そんな時は、満足感や達成感も高まっているのだろう。
こうして、石投げは、ゆっちゅの恒例行事となり、儀式的な遊びとなった。
今でも時折やるが、以前ほどの執着はない。
もうひとつ手の道具的使用は、小枝などの短い棒状のものを拾って、それで土に線を描くことだ。
遊園地や河川敷の土が露出しているところに行くと、棒を探して、それでもって、以前は「クルクル」と唱えながら螺旋模様を好んで描いた。
その後、ひらがなが読めるようになってくると「へのへのもへじー」と言いながら、「へ」と「の」のような形の線を描くようになった。
鉄橋に夢中になってからは、蛇腹状の線を描いて「テッキョ、テッキョー」とご満悦だ。
横から見て、橋梁の鉄骨が斜交いに組んであるのを表したようだ。
お絵描きは、子育て支援センターでもクレヨンや色鉛筆で、よく描いているようだが、ジィの家では用紙から逸脱して、そこら中に描くので、クレヨンを隠され、自粛を強いられている。
ジィの家でお絵描きを始めた頃を振り返ってみると、描いた絵を壁に貼って、それを何度も見に行っては、喜んでいた。
そんな頃に、夜、風呂に入っていたゆっちゅが自分の手をじっと見つめて、手の存在に気づいたのだ。
石ころを遠くまで飛ばそうとしたり、棒切れ・クレヨンを使って線を描こうとするのは、大人と同じことをしようとしているわけで、褒めてもらえると、嬉しいようで上手になる。
しかし、TPOを取り違えると、注意される。
そうするとゆっちゅは、上手にできなかった自分に腹が立つのか、癇癪を起こす。
動物と異なり、上手くやらなければ、餌がもらえないというわけではない、ゆっちゅにとっての報酬は何かと言えば、やはり褒められることなのだろう。
ゆっちゅは、大人と同じことができたということが、何と言っても嬉しいことに違いない。
人は欲しいものがあると、それを餌に嫌なことでも、やらなければならない羽目に陥る。
ゆっちゅには、そのようなコンテクストを読み取ることができる人に育ってほしい。