イヤイヤとコンテクスト横断

ゆっちゅのイヤイヤを見ていると、コンテクスト(文脈)の横断を試みているように思える。

さまざまなコンテクスト(文脈)を読み継なぐことができるのは、事物が自然界に属することからくる性質と、事物が人間世界で流通することで帯びる象徴的な意味も同時に担っているという二重性による。

取り分け、事物が流通する上で、言葉が果たす役割は重要である。

もちろん人間が作る文化全般が有する象徴性も、コンテクスト形成には必要不可欠である。

なぜなら、伝統的文化というものは、事物を情報として固定化し、それを意味という普遍的な形でシンボル記号に託し、再び事物を指し示す回路を形成しながら、時空を越えて継承されて行くからだ。

つまり、有為転変する自然と、それを表現する情報の不変性からくる意味が二重になることで、ちょうど和歌における掛詞の技巧やダジャレなどによって、話の文脈に別の視点が加わったり、話の内容に奥行きが生まれるように、それまでのコンテクストから離れ、別のコンテクストへ移ることができるのである。

別のコンテクストから、さらにまた別のコンテクストへと、次から次へと読み替え、そのたびにそれに対応した行動を取って行くことで、自分自身が意識をもった主体であることを自覚しながら、自我は成長して行くと考えられる。

 

現実の事物と、ものの象徴的な意味が絡み合って二重になっているコンテクストが、コミュニケーションの土台となっているのだ。

ゆっちゅがさんぽの岐路で道を選ぶとき、その先に必ず行くべき場所があり、そこで見たり触ったりしなければならないものがある。

だから途中で道を変えたり、引き返そうものなら大変だ、反っくり返り、泣き喚いて大暴れする。

ペットボトルや空き缶で作った風ぐるまのある畑やクリスマスのイルミネーションを飾った家を見学すること、くぐり抜けて日数が浅い隧道を通ること、鉄橋の梁に似た鉄製の遊歩道の柵で遊ぶこと、大きな根を張った大木などを見ること、最近ショベルカーが分譲のため整地した場所や小学生が校庭で遊んだり体育の授業をしているのを見ること、神社の敷地にあるお稲荷さんの参道を歩いて段差でジャンプすること、うず高く掃き集められた落ち葉の山を踏み歩くこと、神社本殿の鈴を鳴らすことなど、ゆっちゅのさんぽのコースには、さまざまな行事がある。

そして、それぞれの行事においては、言葉で確認しなければならないことが、いろいろとあるのだ。

機嫌が良くないと、おしゃべりは止まり、ただ抱っこされているだけになる。

機嫌が良ければ、抱っこされていても、目に付くものは悉く言葉にする勢いでおしゃべりをするのに、意に沿わないコースを選択されると・・・、だからジィは慎重に対応することにしている。

ゆっちゅは行きたい方向を、人差し指で指し示す。

ひとつの場所でやるべきことをやって、満足するまでは移動するのは禁物だ。

いつもと異なる方角を示した場合や、来た道を戻るよう指示してきた場合は、要注意だ。

強い好奇心が働いていることが多いからだ。

その時、ゆっちゅの意識内、つまり脳の中では、自発的に或るものに接触を図ろうとする心的機能が起こっていることは確かだ。

映像か、音響か、あるいはそれらから連想する何かが、ゆっちゅの行動意欲を誘発するのだろう。

倉庫の鉄製の梁を見て「てつきょ」と言葉が発せられ、実際の鉄橋が見たくなる。

遠くから鉄橋を渡る電車の音が聞こえてきたり、カンカンと遮断機が降りる音を耳にしたりすると、そこへ行きたくなる。

遊歩道の車止めの上に飾られた雀の鋳物を見たり、途中にある石段を見たりすると、その先に何があるのか連想されるのだろう。

日々のさんぽの中にも、さまざまなコンテクストがあり、ゆっちゅが道を選ぶとき、その都度、あるコンテクストを選択しているに違いない。

ジィの思惑で道を変えたりすると、自分はそっちには行きたくないという思いを、コミュニケートしようとして、それがうまくできないことへの苛立ちが、イヤイヤとして現れるということなのだろう。